【講座感想】聞く事、話す事(尹雄大さん)
Twitterで尹さんの講座を紹介しているTweetがあり、何気なく尹さんの著書をKindleでポチった。これがとんでもない傑作だった。
「弱さを克服する」という言葉がある。
私の場合だったら「癌を2度克服した」事になる。この表現に対し違和感を抱き続けていた。癌は未だにリスクとして残っている、だがそればかりを引きずっている訳ではない。このもどかしさや表現はどうしたら良いのか。
「一度どん底を経験した人は強い」という良くある文言だ。それも良くある慰めとも良く解らない表現がある。新たに芽生えた感覚は確かにある。だがその強いという表現は二項対立の表現のように思え、そこに微かな違和感とズレを感じる。自分の中には強さにも弱さも存在するのだ。
世の中は「標語」(Bot)で溢れ、その標語に私達は踊らされている一面がある。私が闘病中に投げかけられた言葉の殆どはそんな「標語」だった。「頑張ってね」「又良い事があるよ」「ポジティブに」。標語は危機に陥っている人の慰めにはならず表現としても弱い。言葉を扱う上で「明晰さ」が欲しい。癌になってからそんなモヤモヤをずっと抱えて生きてきたように思う。
言葉に引きづられるのが私の問題なのか、病気による体感の欠如なのか。ズレを感じた時につまる所身体の方から変えていったら良いのか言葉の意味を突き詰めていったら良いのか。それについても随分考え続けた、その前に感じ続けた。
結論はどちらの方からもアプローチが必要だという事だった。言語化にも拘るし、体感も大事にする。明晰さ、言葉のボキャブラリーを増やす事が結局は脳の活性化にも繋がって来る。それは必ず身体に繋がる。要は全人格的な成長をしなければこのモヤモヤからは抜けきれないという事だった。
講座4「寄り添う」(3月5日開催)
「寄り添う」とは何か。
私は闘病中寄り添われる人間だった。抗がん剤治療中歩けなくなった、自力で通院も出来なくなった、友達や看護師さんなど数多くの人たちが手を差し伸べてきた。だがその彼らの「寄り添う」行為に時には感謝を感じる時もあったし、逆に不快感を感じる事も多かった。その有難いと思うケースとそうでないケースとは差異は何なのか。そんなことをずっと闘病中は考えていた。それに不快感を表した時は悪気はないのだがら受け止めるべきだと説いてきた人もいった。そのような言葉は不定見に思えたし受け入れられなかった。
一言で私の言い分を言えば「私の言うことをちゃんと聴いて欲しい、見て欲しい」だった。不快感を私に与えた人は私を見ていなかった。そして彼らに共通する言い方は「その君の気持ちはわかるよ」だった。解ってたまるか!俺の言う事を聞け!!だった。この感覚は何なのか。
この講座はそのようなモヤモヤに応えてくれる講座だった。この講座に参加している人達はその世の中で起こっているおかしさをどう整理つけたらよいか考え続けている人達なんだろうと感じる。そんな人はきっと世の中多いのではないだろう。
「私と貴方の隔たりを大切にする」
人はしばしば距離(現実)と距離感(理想)との違いに不定見である。例えば私は仕事上でイラッとする事が今週2回あった。だが週末その出来事を振り返って思うのは単純に私が「現実」と「理想」を取り違えていただけであった。誰にでも描いた何日か後、何ヶ月後の理想の計画がズレる事がある。大切なのは何か起こった時にヒリヒリした対人関係の問題として反応するのでなく現象として俯瞰してみることなのだろう。
距離を不用意に詰める、ということを雑にする人は他者との関係性を築く為の「身体感覚」が失われている人が多いように思う。私の経験上「べやっちの事は良く解っている」と思っている人ほど解っていないと後から失望することが多かった。逆説的だが理解とは常に理解が及ばない他者とのせめぎ合いとの過程で成される。きっとそのような人は自分自身の見たくない「他者性」とも向かい合っていない。
「自分の性格は〇〇だ」と言い切る人がいる。私はそのような人達に対してかなり違和感を感じる。その違和感は「自分の他者性」と向かい合っていない違和感、雑な感性だと最近気づいた。「ジョハリの窓」で言われているように人の心には4つの窓がある。自己認識を深める為にはどうしても他人が必要だ。ただその時には「他者」と「他者性」の違いに気づくことが必要だ。他者と他者性を混同すると「自分」も「他人」も気づいていない「未知の窓」の可能性があるという事を見落とす。その時に必要なのは白黒つけずに曖昧なまま可能性を残す「ネガティブケイパビリティ」が必要になってくる。
「投影」という言葉がある。自分が持っている自分の「内的要素」を他の人が持っていると捉える事を言う。私はかつて「投影」で殆どの人の心理が説明できると思っていた時期があった。自分にとってお金が全てであれば他人もお金が全てだろうし、自分が優しさを大切にすれば他人にもその要素がある。よって自分の価値観や幅を拡大すれば他人や世界を理解できると思っていたのだ。結局それはやり方として不味かったと感じている。結局一人の人間はどこまで言ってもオールマイティではいれないのだ、主観性抜きの客観性はないのだ。どこまでもこの世で肉体を持ち思考性を持っているのならば「解らない」という事を大切にする事だと悟った。答えっぽいものに飛びついて「包括性」を失ってはいけない。
私と貴方は友達だ。だが私の知らない貴方が常にあり、判断もしない。だから貴方のことを知りたいと思う。解ったと思った時点で(距離を潰した段階で)すれ違い、それ以上理解が深まる事はない。その時は人が変化する事や多層性を持つ事を否定するだろう。私は今後人間について知りたい。解ったとは決して思わないとそれだけが「理解」を進める一つの方法だろう。
「すれ違う事を大切にする」
ワークショップ中面白い事があった。「差別と区別の違いについて」と言うグループディスカッションしていた時、筆者は「異性とのデートで荷物を持ってあげたり車道に近い方に歩いたり歳が離れていたら奢ってあげたりするのは差別ではなく区別じゃないか」と述べてみた。そうすると同じグループの女性が(その方はとても上品な女性で、物腰の柔らかい女性だったのだが)「奢られるとコントロール感が出るのでそこまで親しくない異性に奢られるのは怖い」「私はそうでないが荷物を持ってあげると男性に言われると怒る女性の友達がいる」と仰られて筆者は心底驚いた。何故ならこちらから奢ってあげる事で女性にそのような気持ちにさせていた可能性があるとは全く思っていなかったからだ。思えば私は異性との付き合いで半ばマニュアル的に「奢っていたら間違いはない」と思っていただけだった。
これが不定見でなくて何なのか。
女性も男性も人にはそれぞれ個性がある。自分がこう思うから周りもこうすべきだ、こう思う筈だと言うのは人間に関する理解、感覚が不足している。多様性の受容を頭で理解する事、ただ相手を受け入れる事、ちゃんと観察する事。パワハラやセクハラの多くは悪気なく「良かれ」「これくらい」と思っている「体性感覚」の不足した人が起こす業なのではないだろうか。私は老害という言葉は好きではない。だが晩節を汚している人はある種の「ある種の身体感覚の欠如」があるように思える。
だから最近「体癖」を学んでいる。身体性から来る人の個性に興味があるのだ。違い、すれ違う事を大切にして生きていきたいのだ。
「寄り添う」とは結局何なのか。
結論。寄り添うとはその人に「必要以上必要以下でもない」サポートをする事である。何も足さない、何も引かない。大切な事は決して決して相手の「自立」する機会を奪わない事。何故なら「自立」する事が人にとってとても大切な事であり侵してはいけない「自由」だからだ。
必要以上のサポートは「依存」に繋がっていく可能性がある。崩壊した枯れ木のような関係にならない事だ。私自身の体験で言えば家族、近しい友人、先輩&同輩であればあるほどその「共依存」の関係に知らず知らずに成りがちだ。「俺がいないとあいつはダメだ」と考えるのはきっと時として気持ち良い事だったり、甘い蜜だったりするのだ。その為には「見る」「観る」「診る」「視る」「看る」事。みるという言葉には色々な漢字が当てはめられる。みる為には「独りよがり」ではいけない。逆に「人任せ」でもいけない。その為には「何となく」感じる事。その感じる才能は誰にもある、ただ言葉に答えはない。答えは身体性にあるのだ。
「寄り添う」という事の答えは明確な「言葉」にはない。言葉の中に全てあると言う勘違いがまたストレスや新たなすれ違いを生み出すのだろう。
講座5「脆さと弱さを尊重する」(3月19日開催)
人間は自分の「弱さ」「脆さ」とどう向き合っていったら良いだろうか。私は少年時期弱点は自分の努力で「克服」できるものと思っていた。だがどうやっても克服できない「弱さ」は存在した。社会人になり「人間は短所でなく長所を生かしてキャリア構築した方が良い」という文言もある。
我々はオールマイティの強さは持てないという「諦念」を持つ時期がどこかで来る。私は弱い。自分は決して強くないと闘病を通じて知った。尹さんは弱さを「武器」にしてはいけない、力を与えてはいけないと仰った。だがこのNoteでもあるように癌サバイバーというのは私の一つの肩書きではある。だがその肩書きは癌罹患したものの開き直りになっていないか、自己同一化しすぎてはいないか。
「傷」へ執着する事と丁寧に自分の傷を感じ向き合う事とは違う。
私は同じホジキンリンパ腫罹患しお亡くなりになられた瀬戸昴さんの著書を読んだ。その中で印象的だったのは「癌罹患者であるという事は私のコンプレックスでありアイデンテイティでもある」と仰った。
だがその言い方は同じ癌サバイバーとしてとても共感できるものであったけれど、同時にそんな考え方は自分の身を滅ぼしてしまうのではないかという懸念も抱いた(お亡くなりになられた方の文言に物申すのは気が引けるけど)。自分の「弱さ」に力を与える事は「自分自身への病」への執着となる。しいてはそれが自分の傷を長引かせる原因にもなり得るのではないか。
酷な言い方になるが癌は死を覚悟するような経験でありながらもそれでもなおあくまで一つの経験であり全てではない。大切なのは「癌サバイバー」という肩書きと自分を過剰同一化(癒着)させない事。
弱さを抱え「そのままで良いんだよ」と開き直ってしまう事は自己憐憫だ。それは弱さへの開き直りに過ぎない。私がかつて尊敬していて今は距離を置いている先輩は病気になった私を見て常に「憐憫」の表情で私を見てくる。その度に傷つく思いがある。さらにこちらに傷をつけようとする行為だとも感じる。そこには「情け」はあっても「愛」はない。それは「弱い」「強い」「病気」「健康」の二元論で片付けようとする目線に対する自分なりの抵抗もあるのだと思う。
逆に「克服」という言葉もまたそれは違う。若くして白血病を患ったJリーガーの早川さんの手記を読んだ。彼は白血病発症から3年の時を経てピッチに復帰した。それは鳥肌が立つような感動的な手記だった。だが彼は最後まで「克服」という言葉は使わなかった、その病(傷)と共に生きていく。そんな言葉で締め括られていた。講義の中で「克服」とは「捨てた弱い自分」に力を与える行為だとされている。早川さんは自分の感性で「病を克服する」と言う言葉に抗いたかったのだろう。尹先生の仰られるように早川選手は「自分の弱さと繋がる事が結果的に全体として強くなる」事を直観的に察しておられるのかもしれない。
大事なのは簡単に白黒つけたいという欲に負けない事なのかもしれない。尹さんが仰られるの通り「弱さ」は資源という捉え方に心から同意する。私は闘病について今までのNoteでつらつらと述べたようにこんなにも沢山のことを知ることが出来た。それは自分の知りたくない「他者性」でもあった。他者との葛藤、自分の内部に起こる「葛藤」でもあった。
取引(トレード)について
講座の中で興味深かったのは「取引」の話だ。人はビジネスの中で「取引」と言う感覚を強化していくがその取引の感覚は子供の頃からある。例えばいじめの対象にならないようにいじめっ子に少し便宜を計ると言うのは昔してしまった事がある。
結婚、恋愛、ビジネス全てが取引だらけだ。Give &Takeの考え方だ。相手に自分がメリットある人間である事を明示しその後に得ようとする考え方だ。それが悪いわけではなく世の中そんなものだ、と感じる自分もいる。だがその時に失うものがあり見えなくなってしまうものがある。それは何なのか。
ナンパのプロという人と喋った事がある。彼らの感覚は相手のニーズ、タイプを読み取り自分が異性に対しメリットのある人間であるように振る舞うというやり方だ。それはビジネスでいうマーケティングと一緒だ。ビジネスも恋愛も一歩間違えれば詐欺になってしまうようなものばかりだ。その時に失うのは自分や他者への「探究心」だと思う。トレードはこの世界で生きていくには必要な知恵かもしれないがそれを人生全てにして良いのだろうか。
人は統合でなく融合として捉える
面白かったのは参加者が平野啓一郎の「分人主義」について言及され尹先生に質問されていた時の尹先生の回答だった。この質問はとても良い質問で尹さんの世界観がさらに分かったような気がした。
尹先生は平野啓一郎さんは「統合」として捉えているが尹さんは人間はのっぺりとした水平統合でなく垂直に多層的に「融合」されたものとして捉えているとの事だった。
下記は統合(分人)と融合の違いをネットで拾ったものである。
「あの人は裏表がある」という言葉を述べる時、それは人を「分人」として捉えている事になる。その捉え方では多くの間違い、すれ違う事を助長させる事になる。見えない所に如何に感性を働かせるか。人間を多層的に見る事と上記で述べた「ジョハリの窓」を足し合わせればもっと立体的、多面的に見えてくる。
それは身体を研究しているとわかる。身体の内的な免疫機構や外的な筋肉構造。人間の身体は筋肉を主体にして考えがちだが脳、神経、骨、筋膜もありそれらは影響を及ぼし合っているテンセグリティ構造体だ。
「観察者」としての他者
最終のワークショップは面白かった。
グループで「被害者」「加害者」「解決者」「観察者」として分けて「被害者」が自分のネガティブなことを話し、残りの3人はそれぞれの役割を演じる事で何が見えるか発見できるかというワークであった。
感想は結局「加害者」と「解決者」は似ている事が分かった。加害者と被害者は「反転」の立場をとってるだけだった。そしてそれは「被害者」と「解決者」との関係もそれは言える。だから被害者は潜在的に「加害者」や「解決者」に成りうる可能性がある。そこには「被害者」を攻めようとするのか、「被害者」を解決しようとするのかそこには自分の「思い」がある。ただその自分「思い」「欲」を持つ事により「被害者」が語る言葉や情報は大きく削ぎ落とされる。
ではどうすれば良いのか、「観察者」という立場に立つ事である。
一切判断しない、先入観を持たない。それにより「被害者」が救われ、自分で解決方法を導き出せるのである。他者と誠実に向き合うという事は他者に対する「欲」にまず自分が向き合うことが第一歩となるのだというのは大きな発見であった。
「違い」を大切にする
自分の今のテーマは自分を大切にする事、その為には他者との違いも大切にするという事である。その為には「観察」と「対話」が大事であるという事、そこに感情を混じえる必要がない事を学んだ。かつての自分が死んで新しい自分を生まれさせる。後から自分の人生を振り返った時にこれが第一歩になれば良いなと感じる。
ミクロ物理学で言えば他者と自分を隔てているものは何もない。だから「全ては繋がっている、私と貴方は繋がっている」という文言が世の中は多いような気がする。それは人々を幸せに導くのだろうか。
否、我々は今肉体を持って生きている以上他人と自分は分かれている、自分も多層性を持っているという認識を持つことが救われることが多い。それは癌闘病を通じてそして今尹さんの講義に出会う事によって得た実感である。
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