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【WS感想】テンセグリティWS

京都で行われたバックミンスターフラーの弟子あられる梶川先生のテンセグリティWSに行ってきた。最近身体の勉強をしているのだが人体がテンセグリティ構造体であるという言葉を色々なところで見かけており自分もそれに影響されて本を読んだり発言をしたりしているがどこかでちゃんと学ばないとという気持ちがあった。

そんなおりの突然の梶川先生の関西来訪である。ちゃんとバックミンスターフラーの本も予習していった。

バックミンスターフラーという人について

バックミンスターフラーは1895年生まれ1983年没の20世紀の人物である。今年は彼の没後40年になる。梶川先生訳の「宇宙エコロジー」「クリティカルパス」も図書館から借りて読み込んでいった。

建築家であったフラーは32歳の時、自分は社会の使い捨てにこのままではなってしまう事に気づき家族、友達、国家の為でなく全人類を包括的に全身させる為に自分一人で自分の直感のみで邁進させると誓った。その生き方でどうやって金を稼ぐのか。彼は水の波紋や太陽の周りの地球が回るようにプリセッションな力を、物理学を心から信じていた。自分が人類の為に仕事をしたなら自然がその仕事を評価するだろうと。マーケティング専門家がぶっ飛ぶ考え方である。

水の波紋にプリセッションな力を見る

何という凄い人だ。

彼の考え方の中で特殊なのは経済学者もぶっ飛ぶ「富」に対する考え方がある。彼はシントロピーとエントロピー、圧縮と張力、物質と放射。その二つのバランスが取れていれば「富」は不滅と考えた。彼は現在建築を反エコロジーと考え再生的なデザインである「反建築」を生み出した。

今目の前にテンセグリティ構造体がある。抽象的な概念をモデリングし物質化させたのがフラーの凄い所である。重力と張力のバランスの中に陰陽が溶け合っている。このテンセグリティを眺めているだけで色々なことが学べるし見えて来る。

梶川先生のお話

子供の教育について

梶川先生は子供の教育についてお話された。我々は裏打ちされた技術を子供に与えているだけだ。だが自分がそうであったように道具と環境を与えれば子供はCreationする。そのような成長のあり方がある事をわかっていない大人が多い。宿題は子供の想像力を奪うものだ。世界には子供の想像力を研究しているラボがある。

テンセグリティ構造体について

テンセグリティは世の中に良くある多面体ではない。面がないのに自律しているのは何故か。それはネットワークのシナジーの効果だ。テンセグリティの張力材にゴム材を使って入るのは偽物だ。二点間距離をできるだけ一定に保つ為には伸びすぎないカーボン材が最適である。

システムを通過する外力エネルギーにより同期し振動する。これは自己組織化している。テンセグリティ構造体の中は物理的に手が入る。その中に入れた水の分子は六角形から五角形になる。(何という事だ!)

テンセグリティ構造体の中で過ごすと周囲が暴風域でも中は影響を受けない。そして風速7mになった時に共鳴音が聞こえる。それはこの世とは思えない鳥肌が立つ音楽だったそうだ!

テンセグリティ構造体は何本か切れても自己組織化しているので自律する。そしてその驚くべき強さは現在の構造力学では説明出来ない。ライト兄弟が飛行機を設計した時には理論は存在しなかった。航空力学(理論)が発展したのはもっと後だ。彼らは「飛ぶ」ように設計しただけだ。フラーはテンセグリティ構造体を成り立つように作っだだけだ。

建築について

世の有名な建築家はテンセグリティ構造体は建築に使用するのは危険だと言う。そんな事はない。雪の中に何mもの豪雪に耐え、もし積もっても共鳴振動で簡単に払い落とせる。何より少ない材料で経済的に作ることができる。

ジオデシックス多面体については幾つか実用化されている。モントリオールにあるジオデシックスドームは建築物そのものが足場が要らなかった。今グランピングなどが流行っているが構造体は1980年代のヒッピー文化のものが残っている。だがジオディシックス多面体は簡単に小さく出来る、災害現場などでも活用できる筈だ。

モントリオールにあるジオデシックスドーム

家を建てると大体35年ローンで半分は金利で持っていかれる。動物は家を自分で作る事が出来る、作れないのは人間だけだ。今専門家は知的だが権力の奴隷じゃないか。フラーはその意味で専門家ではなかったのだろう。家の作り方を教えて人を労働から解放したら良いのに建築家は協力しない。

概念について

梶川先生の言葉に「人間の言葉から作られる概念が宇宙的現象の生成過程をダイレクトに観る事を妨げてきた」というものがある。ではその概念から逃れるにはどうすればよいかという参加者からの質問があった。その数十秒の質問に梶川先生の解答は数十分に及ぶものだった。

概念は人間を支配している。結果それがいきなりなくなったら困る事も多い。言葉が事実を作るという面もある。蛇だと思って鰻を食べて死んだ民族の人もいる。黒船は知識人にしか見えなかった。見える色だって民族によっても違う。

概念の支配から抜けるなら時には群れから抜け出るしかないんじゃないのかな。ダビンチやケプラーは概念を少しずつ壊していった。そのシナジェティックスの研究をしていたから自分は少しは自由になれた面もあったのではないのだろうか。

作成した感想

テンセグリティを作る作業はとても自分には難しかった。抗がん剤の後遺症である感性と集中力、目の効きの低下がまだ良くないのかもしれない。梶川先生は圧縮材(細棒)を魚、張力材(カーボン)を網に見立てて説明してくれたが細棒の十字に網のNodを合わせるのが難しかった。テンセグリティWSに何回も参加している人がいて彼らに助けて貰う形で何とか完成させる事は出来た。

「百聞は一見にしかず」という言葉がある。人間は先ほど言ったように概念や言葉に引っ張られる。今あるマーケティング手法の殆どはその人間の弱点をつく手法だ。梶川先生も「人間の言葉から作られる概念が宇宙的現象の生成過程をダイレクトに観る事を妨げてきたのだ。」と仰られている。テンセグリティ構造体の発明の偉大な所は概念だけで終わらせずモデリングして物質化(視覚化)させた事にある。梶川さんが仰られるようにこの世界

一見奇妙な事にワークショップはテンセグリティを作り上げた後に参加者が自己紹介する順番になっていた。後から考えて何となく解った事だがテンセグリティ構造体を作成した状態であるという事とそしてテンセグリティが存在している状態が目の前にあるということが自己紹介で大切だったのではと感じた。

参加者は医療関係、介護関係、建築関係、武道家の人もいたが何となく誘われて興味本意で誘われて参加したというフットワーク激軽の人達もいてびっくりだった。このワークショップは人を選ばない、全ての人に対して門戸は開かれているのだと感じた。身体操作でセミナーを受けた事もある名の通った先生もいたし、自分がSNSでフォローしているインフルエンサーの方もいた。その中に以前尹雄大先生のワークショップの参加者で一緒にディスカッションした事のある女性がいてお互い「マジで!」とビックリした。この偶然の再会もテンセグリティの成せる業なのかもしれない。

参加者の自己紹介は面白かった。特に言葉にならない言葉を何とか紡ごうとしている参加者の自己紹介は特に面白かった。自分の自己紹介はいつものように頭を使い整理し誰にでもわかり突っ込まれないように概念を整理して喋ったのだがあの場にはひょっとして不向きだったのかもしれないと反省している。

原子核の構造には面が存在しない。ミクロの化学の世界では粒子が目に見えないくらいの電気エネルギーで重力と張力がバランスを取る構造になっている。

人間の身体を見たらどうなのだろうか。この棒を骨(圧縮材)として見立てさらにこのカーボン材を筋膜(張力)として見立てるとこの構造は身体にも当てはまる事がわかる。

とりあえず静止画埋め込み。本当は動画を埋め込みたいのだが。。

このテンセグリティはさらに進んで人間の作り出すコミュティを具現化しているように思えてならなかった。

この棒は人間一人一人と捉えると人と人は支えあっているのでなく張力で適切に引っ張りあっているだけなのだ。だからこそすれ違っていてお互いが違う景色が見えて自由に行き来することが出来る。奇しくも尹雄大先生から「人間すれ違うというのは大切な事だ」「寄り添うというのはその人に多くも少なくもない力を貸してやる事だ」と仰っていたまさにその景色が具現化されている。少なくとも私はコミュニティをテンセグリティ構造体のように思うことが出来なかった。だからこそ争いが起こるしお節介も起こるのだと感じている。

梶川先生は「今の時代は変化しているようで抜本的には変化していない。テンセグリティ構造体で作られた建物ですら未だに作られてない。世の中が必要としているのはCreationじゃないか」と少し悲しそうに仰っていたのが印象に残っている。自分の残りの人生で何を賭けたら楽しいかと想像したらやはりCreationの部分かなと感じる。その為にはフラーがそうであったように専門家でなく業界を横断するような存在になる事。まずはダンスでそのCreationをまず体現させていきたいと感じた。

そして改めて感じたのはこの世の中生きているものは共鳴しあっているという事。だからこそ「環境にこだわれ」と大前研一さんも本田圭佑さんも仰っている。私は田舎に住んでいてB boyをやっていた時「B boyが成長するのに環境って大切だよね」と言った時「いや努力すれば環境なんて関係ないでしょ」という反論を食らった。それに上手く反論は出来なかったが今なら言える「人間は共鳴する生き物でありその影響を無視すべきでない。それに自覚的であるのが良い生き方と言える」

京都のあの場は重力と張力がバランスしたこの上ない良い場であったしあのシナジーの場に入れたのは大きい。場の張力を選んでいく事、その感覚に自覚的であることがこれからの人生に必要なのだと改めて感じた。

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