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旅先での過ごし方

この先どうやって生きていこうか。

腕組みをして、うーんと頭を悩ますのは、複数体のイエス様が見守る、ある街の、ある教会。

天使が舞い降りてくるみたいに降り注ぎ、差し込む朝日がきれいなので、それを見に訪れるつもりが、友人と私、2人して朝寝坊。家を出たのはお昼前、軽いご飯をかきこんで仕度して、家を飛び出る。

フラフラと散歩をしながら、目的地にたどり着いたのはもうランチどき。それでもなお、日の光がステンドグラスを透かして教会中に伸びている。とてもきれいだ。

白い息を吐きながら、

私たちにはどうも信仰心なんてものがわからないね。

子供の頃は、どこか仏様を信じていた節があったけれど、今となってはかわいい思い出。(島出身のわたしは、夜の荒れた海で船に乗って家に帰らなければいけない、なんて状況がしばしばあった。怖くて怖くて、船が沈まないようお願いするのに必死で。その時は大抵、ナムアミダブツナムアミダブツ…なんて、意味も、言葉があっているかもわからないまま、何となく救われる気がしてぶつぶつ唱えたりしたもの。)

信仰心とやらの、不明瞭極まりないものに、こんなにも突き動かされ、これほど立派な建物をポコポコと、ヨーロッパあるいは世界中に作らせてしまうのだから、イエス様(宗教)は、人間の心は、つくづく不思議だ。
(絵画や建物、像という形の信仰心の具現化というやつ)

こうして感動するものの、信仰心のない私たちは、そのまま自然と将来について話題を移した。何を話したかは、実はあまり思い出せないんだけれど、神さまとか仏様とか、これっぽっちも関係のない話を、教会の壁や床、そして像の石にしみる寒さにも負けず、相変わらず白い息を吐きながら延々と話し込んでしまった。

少しは考えがまとまってスッキリ。

それでも、神様は私たちを批判するでもなく、追い出すでもない。
"いってしまえば異教徒"の私たちの心をも、安らかにさせまうほど(少なくとも宗教には、信者たちにむけて、そういう力があるのだろうなと)まさに偉大にして寛大な神さまだった笑
(都合のいいやつ…)

この日記の言いたかったのは旅先で忙しく観光もいいけれど、どこかでボケ〜とする時間もなかなかいいんじゃないかなと思えた、という事実である。
次からそうしてみたいもの

最後に、読み返してみると、何となく宗教チックになっていたのだけれど、、、決して"神様"に焦点を当てたのではなくそういう概念的なものについてお話した事をメンションしておきたい。

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