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悪役令嬢モノに思うことと、それはそれとして面白い作品を勝手に推してみたの二本立て。

昨今、「悪役令嬢うんぬんかんぬん」的なタイトルの作品がラノベにしろコミカライズにしろめちゃくちゃ流行っている。なろうやカクヨム、支部などそれはもう至る所で見かける。
沢山の悪役令嬢系作品の中からキャラクターの心情変化の描写や転生前の知識の活かし方に読んでいて納得がいくものを自分なりに厳選してきた訳だが、好みか否か以前に私の中で根本的にモヤッとしている設定がある。

「なんでそこまでセレブのド貴族さんがわざわざ『学園』に通わねばならん???」

通わせなければ断罪もざまあ展開も起きないからだとわかっているのでこれを言ってしまうと身も蓋もないとは百も承知。だが、私個人は「中世ヨーロッパ系統の爵位設定ありきストーリーで貴族の御曹司・ご令嬢がわざわざパブリック・スクールに通う必要性」に対してどうにも納得がいかない。

貴族として生まれるからには、ヒッヒッフーおんぎゃあした時点で婚約者や家業の相続云々人生のレールがほぼほぼ明確に決まっている訳で。「私はこう生きるものだ」と確固たる固定観念を植え付け、政略結婚により両家のWinWin結びつきを強め、家格を保ち続けるための跡継ぎとして不自由なく育てるなら、学校なんていう子供にとっての束の間の自由からの卒業後に爵位継承に伴う残酷な現実をこれでもかと背中に背負わせ数年の間に芽生えた自由な人生なんて甘ったれた展望を完膚なきまでに挫き人生観を矯正する必要性とは。家で囲って徹底的に箱入りに育てたほうが跡継ぎ教育は遥かに楽じゃなかろうか。
自分の領地で管理し繁栄のために働いてもらう平民達の裕福でないにせよ豊かな「自由」がどんなものかは、跡継ぎとして後戻りできない地位に立たせたあとで知った方が「自分にはもう叶わない」と諦めがつくだけ心の傷は少ないと思うのだ。
学びの場は歴代お抱えの家庭教師に任せ、将来の仕事のノウハウは父について領地を巡るなり補佐の仕事をするなりして実地経験で体に叩き込む。その方が当主としても思想の刷り込みに何かと都合がいい筈ではないかと。

婚約者がいる立場を忘れて息子がヒロイン逆ハーレムの一人に成り下がる環境が作り上がる前に諭せず助けられない両親の気持ちを考えると、貴族を学校に集め非現実な社会の一員経験をさせる学園での義務教育という世界観設定に疑問を感じてしまうのだ。

そもそも社会性を養いたいという目的なら、そのために社交界、アフタヌーンティーやガーデンパーティーの文化、王家の主催の宴があるのだよ。
家格には家格ごとの礼儀と暗黙の了解がある。手紙に取り入れていい単語や慣用句から始まりカーテシーや辞儀の形式、ドレスやジュエリーに使っていい素材、コルセットで搾る腰の細さなどそれはもう多岐に渡る。自分の家に合う家格同士の爵位を持つ家の中から懇意にしたい家を厳選して、礼儀正しい文体をマスターした末の技量発揮といえるお手紙を送り、お茶会なりガーデンパーティーなりに招待する。誘わなかった家の人に直接顔を合わせて謝罪し機嫌を取るも、明確な派閥違いの線引きを察して頂くも、王家主催の宴なり社交界なり対応できる機会は年間を通じてそれなりに設けられるものだ。パブリック・スクールにわざわざ通学しなくたって、貴族らしい社会性を磨きたきゃどうとでもなる。

パブリック・スクールへの通学が義務教育という法律が設定された世界観で展開する話がとても多いように見受けられるが、その法律自体が悪役令嬢系作品における貴族社会そのものの存続を脅かすフラグでしかないと思えてならない。
現代ならば実家の財力や地位の忖度なしに努力と成果で平民の生徒が学園内の勝負事行事に勝てることも正当に評価されることも普通だろうけども、悪役令嬢系作品の世界観設定なら学園内の順位付けや表彰を含むイベントなんて結局は、より爵位の高い貴族が上位を埋める忖度でしかない出来レースにしかならないのが普通ではあるまいか。そんな八百長の茶番劇にしかならん行事を伝統だからと続けるだけの学園への通学が貴族にとって法律で定められた義務である時点で、王家の考えが理解できない。

イングランドには沢山の名門パブリック・スクールがあり、現代においても世界中の親が財産を惜しみなく注ぎ込みセレブの子息や高い志を持つ平民の虎の子達が通って自己研鑽に励んでいる。最低限の教育しか望めない公立校よりも遥かに質の良い教育を受けられるのだから、納めるべきお金を積めるのであればセレブも平民も好きに通えばいいと思う。現代におけるパブリック・スクールの存在意義を否定するつもりは全くない。

あくまで、悪役令嬢系作品の多くに見られる時代錯誤前提の世界観においてご実家の地位と財産を考えると彼らの教育環境をわざわざ「パブリック・スクール」に定める必要性ある?という話だ。
現代は現代、フィクションはフィクション。

……まあ、パブリック・スクール設定がなければ起承転結もないのでこんな個人的な呟きをダラダラと綴ったところでだから何なのって話よ。
文句言うなら納得いく作品書けって話よ。
書けぬのならそこまでという話よ。

という訳で「悪役令嬢モノに思うこと」のパートはここまで。

悪役令嬢モノを読むだけなら、私は「悪役令嬢の中の人」「ツンデレ悪役令嬢リーゼロッテと実況の遠藤くんと解説の小林さん」がとても好み。
どちらも素晴らしいのだが、「悪役令嬢の中の人」のコミカライズ版が特に原作をこれ以上なく補填し昇華してくれている。「うちの妹に生まれればこんな思いさせなかったのに」のシーンが好きだ。
レミリアが転生前のエミの記憶を辿り知識を蓄積していくうちに、エミがゲームの中の自分へ惜しみなく注いでくれた無償の愛の全てにレミリアが救われていく過程の描写は実に丁寧で、エミを想うレミリアはいつも可憐に笑う。
両親はおろか婚約者である王太子殿下からも愛されず本来は孤独ゆえに心を病みラスボスとなって聖女ヒロインに滅ぼされるはずだったレミリアが、エミの記憶とエミが自分の身体で登場人物達を救っていく過程を追っていくうちに自分に憑依しているエミを心から慕い慈しむようになる。
周りの誰もが与えてくれなかった「愛」とは与えるものという黄金律を学ぶ。本来の悪役令嬢ラスボスならば知ることのなかった無償の愛を知っていく。
飽きの来ないテンポのいい展開には一切の無駄がなく、画力の高さゆえに登場人物達の表情が実に豊かで読者をどんどん作品に引き込んでいく技量がエグい。
世界の全ての人間がエミの心を持てばこの世から争いは消えるとさえ思う。
悪役令嬢に憑依して話を変えるという定番オブ定番の展開に本来の体の持ち主である悪役令嬢の魂も共存すると、こんなにもストーリーに奥行きを持たせられるのか。原作のアイデアもさることながら、コミカライズ版での肉付けがとても良い。どっちの方が優れているとかはない。どちらもそれぞれの良さがある。マジで両方とも良い。


……良いしか言えてない私の語彙力is何。こんな時こそ厨二病あるある『力が……欲しいか……?』の出番だろうが。なんで私に降臨してくれないんだ。私がクリスチャンだからか。私がアラフォー限界オタクだからか。ハンドメイドやってるからか。
力が欲しい。語彙力という名の力が。誰にも奪われることのない私だけのボキャブラリーと文章力が欲しい。
「そなたの望みを叶えてやろう」はやっぱり聞こえない。悔しい。これが現実だ。

こんな世界観を自在に書き操れる語彙力と文章力があったら人生はどれだけ楽しいことだろう。そう思わずにはいられない2作品なので、もし興味があれば是非とも読んでみて頂きたい。


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