石井琢朗の逆襲

お断り

今回の記事の中には一部の方に不快な印象を与える記述がございますことを予めお断り申し上げます。あくまで1ファンの私見ですので科学的根拠や歴史的史実に裏付けられた記述でないことをお詫びいたします。

2008年に引退していれば監督就任もあった?

石井琢朗が2008年オフにベイスターズから引退勧告されて球団を飛び出たことについて球団の対応が冷たいということになっています。石井琢朗自身もわだかまりがあったようです。2007年大矢監督が復帰した時に巨人から移籍のベテラン工藤、仁志と共に若手に押されつつあった98年V戦士石井琢朗、鈴木尚、佐伯を前面に出しました。しかし4位に終わると、2008年は急激な若返りを図ります。特に後半戦では最下位独走ということもあって石川を遊撃手に据えます。球団の意図は2つあったと考えられます。1つは年俸の高いベテランを辞めさせることでのコストカット、2つめは大矢監督ではチームは強くならないと考えて2009年に98年V戦士の石井琢朗、鈴木尚、佐伯を2010年からの首脳陣候補として残し、ポスト大矢に据えようとしていたのではないでしょうか?もうこの頃にはTBSはチームの売却を検討しており、その際に不人気チームになっていたベイスターズの目玉として98年V戦士が率いるチームとしたい意図があったのでは?と考えます。

大矢監督就任は石井琢朗の意向

2005年にベイスターズを3位に引き上げた牛島監督が2006年最下位の責任を取って退任しました。球団が牛島が求める栗山ヘッドコーチの就任を断ったこと、戦力補強を断ったことが原因だと言われます。一方でTBSサイドは自社の解説者であり、ダイエー監督、阪神優勝の際のコーチを務めた田淵幸一氏を監督に招聘します。ベイスターズの山中専務と大学時代バッテリーだったこともあり、一度は前向きに話が進みますが、本人が監督に向いてないと考えていたこと、山中専務が那須野事件が明るみに出る直前で事実上球団の仕事から干されたこと、北京五輪日本代表のコーチに星野氏から声を掛けられたことから田淵監督就任はなくなります。球団はチームのご意見番であった石井琢朗に相談し、98年優勝の基礎を作った大矢監督がいいという石井琢朗の言葉で2度目の監督就任をお願いします。しかし2008年に大矢監督が若手シフトを球団から言われて、石井琢朗を退団に追い込むのですから皮肉なものです。

ベイスターズの方向性に言及する石井琢朗

このオフ、石井琢朗はYOUTUBEなどでベイスターズの方向性にかなり言及しています。三浦監督に配慮しながらの発言ではありますが、野球の方向性が見えにくかった三浦監督よりも明らかに攻撃の在り方について詳細に語っています。前述の大矢監督が最初に監督を務めた時の2年目に権藤投手総合コーチが就任して、事実上投手起用の監督が権藤氏になったことがあります。もしかすると石井琢朗が野手の監督として事実上指揮を執ることがあるのかもしれません。

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