優勝請負人の時代は終わった

優勝請負人

昭和の時代は三原、水原といった名将が巨人から他球団の監督に就任し強くするという時代でした。特に三原は巨人、西鉄、大洋、近鉄、ヤクルトで監督をして日本ハムでは球団社長に就任するという6球団に携わる活躍でした。三原、水原、広岡という監督はせパ両リーグで日本一を経験するというまさに優勝請負人でした。選手でも外国人選手2人時代ではマニエル選手がヤクルトを優勝に導いた後、近鉄に移籍し2連覇に貢献しました。助っ人という言葉のごとくです。江夏投手は広島、日本ハムのクローザーして優勝請負人の言葉通りの活躍でした。平成の時代に入ると王監督、野村監督、星野監督、梨田監督が優勝請負人として複数球団の監督を務めます。野村監督は1970年代、1990年代、2000年代を監督として過ごし、星野監督は1980年代、1990年代、2000年代、2010年代監督を務め在籍した中日、阪神、楽天の全てを優勝に導いています。優勝請負人の監督の場合は息のかかったコーチや選手などを引き連れてくるケースが多く監督退陣後にチームが崩れるケースもあったようです。それがなかったのは根本氏がGM的役割をしていた西武ぐらいではないでしょうか?

名将が率いてチームがボロボロ

1960年三原監督就任で優勝し日本一になった大洋は1987年広島監督として4度の優勝、3度の日本一に輝く古葉監督を就任させます。コーチも古葉ファミリーで埋め尽くされ、スカウトやマネージャーも広島から移籍しました。5年契約でしたが3年連続Bクラスで解任。(2年分の年俸は違約金として払う。)この時代に獲得した高校生選手が後の98年優勝メンバーになったことから意外に評価は高いですが、フロントやコーチまで一気にいなくなったダメージは相当なものです。2001年には大堀球団社長が3年がかりで口説いた森祇晶が監督に就任しました。3年契約でしたがチームは財政が苦しく当初コーチ就任を予定していた森繁和投手コーチ、辻守備走塁コーチを招聘できませんでした。また4番のローズも残留させることができず最初からボタンが掛け違っていました。権藤監督の放任野球から急に管理野球へ方向転換したためコーチたちも森監督や黒江ヘッドコーチの指示が意味するところを理解できず、西武で管理野球を経験していた青山守備走塁コーチが全ての指示の解説をしていたといいます。選手も森監督が嫌いそうな進藤、波留を放出するなどしたためチーム内もギクシャクしました。森監督は選手と直接会話せず選手の批判をベンチで選手に聞こえるように言ったり、マスコミを通じて新聞やテレビで伝える形を取っていたことで選手やコーチにも不信感が募りました。特に正捕手だった谷繁はマスコミを通じての森監督から谷繁への悪口に嫌気が差し、FA権行使の際にフロントへ「森監督が残るなら球団を出ます。」と発言し、暗に森監督か谷繁かどちらかを選択しろと迫りました。谷繁は中日に移籍し、2002年森監督は最下位で解任されました。2002年にはTBSに経営権が移っていましたがあまりにも森監督が不評でTBSとしても違約金払ってでも解任しないとチームが持たないといきなり帰路に立たされました。この解任劇は森監督も日本の野球に嫌気が差す事象となりハワイに移住するきっかけになったようです。またTBSも親会社になってすぐ森監督、黒江コーチの違約金、翌年にはコックスの違約金と数十億のムダ金を払うことになり、ベイスターズが株主総会の火種となりました。選手やコーチ、ましてやフロントの人間まで優勝請負人の監督に合わせた人事をすると退陣後にチーム運営がいきなり厳しくなります。引き継ぎもなされないままチームを去ることの連続ですから監督にしろGMにしろ優勝請負人頼りのチーム運営というのでは今の時代では難しいと思います。

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