横浜を出る悦び 内川聖一

内川聖一とは

横浜ベイスターズ暗黒期といわれる2000年代の主力だった内川選手。2000年ドラフト1位で大分工業からベイスターズに指名されます。高校1年の時に骨嚢腫により3回の手術、3か月に渡る入院を経て高校通算43本のホームランを打つ長距離砲の遊撃手としてドラフトの目玉となりました。2000年のドラフトでは中日5位指名の鉄平などと共に遊撃手トップクラスのランクで広島とベイスターズが興味を示していました。大分工業の監督で父親が法大出身だったことで法大入学が有力とも言われ体の問題もあり、練習の厳しい広島に指名されたら大学入学を決めていたようです。ベイスターズに指名された時、法大の山中監督は担当スカウトの岩井スカウトを出入り禁止としますが、2年後山中監督はベイスターズの専務に就任するというオチが付きます。98年ドラフトで横浜高校松坂に外れると三塁の長距離砲古木を1位指名、99年はPLでセンターの俊足天才外野手田中を1位指名、00年内川を打てる遊撃手で1位指名ということでこの3人がベイスターズの中核になれば常勝チームになれるという期待が持てる指名でした。最初は松原選手も付けていた背番号25。2年目からは背番号2となります。遊撃手と二塁手をやりながら送球に難があるため三塁手や一塁手もやりました。2006年100安打以上して開眼。08年に杉村コーチに出会うと首位打者となります。そこからは首位打者争いの常連となり外野手もこなし、09年はWBCの日本代表となります。10年にはFA資格を取得すると「横浜を出る悦び」という言葉を残しFA宣言しソフトバンクへ移籍します。当時の横浜はファンは練習すれば「酷使だからダメ」、試合に出れば「酷使だから休め」というファンも多く、試合は見に来ないくせにネットの掲示板などでは采配や選手の批判をし、選手のやる気を削ぐファンが多く内川も愛想を尽かしたようです。また首位打者のヒントを教えた杉村コーチがクローズアップされる一方で、生え抜きのコーチがないがしろにされ不満を内川にぶつけるなど在籍しづらい雰囲気があったようです。ソフトバンクに移籍すると1年目から首位打者で江藤選手に次ぐせパ両リーグでの首位打者に輝きます。ソフトバンクでは優勝、日本一も経験してベイスターズでは味わえなかった勝利の喜びに触れます。17年には古巣ベイスターズとの日本シリーズで山崎康晃から同点ホームランを打ち日本一に貢献するなど日本を代表する打者として未だに現役です。

打撃の変化

ベイスターズの伝統的打撃は前で捌く打ち方でした。変化球などが変化する前に打つ、そして長打よりもゴロを転がすことで相手がエラーするのを待ち、美しい打撃フォームを保ち型を重視する打撃が指導方針でした。08年に入団した杉村コーチはギリギリまでボールを引き付けるアドバイスでスローボールを打つ練習なども取り入れて首位打者を獲得しました。前で捌き内野ゴロが多い打者が好みのベイスターズファンからの批判などもありチームに居づらくなったこともFAの要因でしょう。

横浜を出る悦び

FAでソフトバンクに移籍する際にすぽるとという番組のインタビューで「僕自身は(横浜を)出ていく喜びを感じられますけど」と発言したことが由来となっています。ベイスターズ暗黒期でミーティングも機能不全だし、ルーキーは横浜スタジアムで半裸で日焼けしてくつろいでいるし、ファンは試合も見に来ないくせに金も出さずにネット上でチーム批判を繰り返すという最悪な状況で選手としてONE UPしたかった気持ちは察します。

横浜に戻ってくるのか?

完全にソフトバンクの人となってしまっている内川選手ですからベイスターズへの復帰は指導者としても可能性は低いのではないかと思います。ただ17年の日本シリーズでスタジアムに来るベイスターズファンの熱気は感じたはずで今のベイスターズだったら残留したかもという思いはあるのではないかと感じています。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?