オバQ田代富雄

最後のクジラ田代富雄とは?

19年からチーフ打撃コーチとしてベイスターズに復帰した田代氏。神奈川県小田原市出身で地元神奈川出のスター選手でした。72年ドラフト3位で藤沢商(現藤沢翔陵)から入団。ドラフト直前にお父様が亡くなったことでプロ入り表明しました。木製バット時代に高校通算42本塁打の長距離砲三塁手で入団会見で「長嶋さんのような三塁手になる。」と宣言しました。3年目の75年までは二軍暮らしでしたが、75年にイースタンリーグで首位打者と打点王になると三塁手不足になく長嶋巨人からトレードの要請がありました。当時の大洋秋山監督は高卒3年目まで二軍暮らしだからこれ以上伸びないと放出を決意、トレードがまとまりかけていましたが、ボイヤー選手が田代は必ず主力になると球団幹部に懇願して残留した経緯があります。4年目の76年から一軍に出始めると5年目77年川崎球場ラストイヤーに田代選手は35本塁打を放ち、途中までは王選手と本塁打王争いをしますが755号本塁打のかかる王選手が50本塁打でホームラン王となります。マスコミは田代選手を入団4年目から開眼した王選手と比較してスター扱いします。二軍暮らしで用具も満足に入手できなかった田代選手は同僚の松原選手やボイヤー選手にかわいがってもらい、練習に付き合い野球を教えてもらいながら用具をもらったり、食事を食べさせてもらい一流の野球というものを学びます。横浜スタジアムに移ると本塁打は減りますが、本塁打1本につき星のシール(ホームランスター)をヘルメットに貼るというスタイルを当時の大洋はとっていて子供たちに本塁打の多い田代選手は大人気でした。80年には自己最多の36本塁打を放ちます。80年から6年連続20本塁打以上を記録し、ほとんどの選手が本塁打1桁台の中で気を吐きました。三塁守備は脆く、トンネルも多かったため85年近藤貞雄監督により一塁コンバートされます。86年守備中のケガで左手首を骨折し、田代選手は86年を最後に2桁本塁打を打っていません。90年に一度引退を決意しますが、須藤監督、大杉コーチから慰留されもう1年現役を続けます。91年の現役最終試合は3年ぶりの先発で現役最後の打席で満塁本塁打を放つというホームランアーチストらしい引退の仕方をします。

引退後はラーメン屋さん

田代選手は引退後、ラーメン屋さんを開き、解説者の傍らラーメン屋さんとして味で勝負していました。元野球選手の店という感じを出さずに人気店まで押し上げました。

コーチとしての実績

97年に二軍コーチとしてベイスターズに復帰すると10年までいろいろな立場でベイスターズを指導してきました。選手の声に耳を傾け指導する姿は選手から支持を集め、07年からは二軍監督を務めます。09年大矢監督が途中休養すると一軍監督として采配を振るいます。ただ盟友の高木由氏をヘッドコーチに据えるなどの案は却下され、孤独の中で指揮をすることになります。10年には二軍監督に戻りますが1年で退団し、ユニフォームを着ることに拘り11年からは韓国SKワイバーンズで金星根監督のもとでコーチをします。12年から15年途中までは楽天のコーチ。楽天13年の日本一へ貢献します。特に日本の野球に苦しむマギーを復活させた評価は高いです。16年からは巨人のファームで指導し、岡本育成のキーマンと言われていました。ベイスターズ時代最後の教え子筒香のラストイヤーと言われた19年ベイスターズのコーチに復帰します。ベイスターズ時代は多村仁志・金城龍彦・内川聖一・村田修一・吉村裕基・下園辰哉・筒香嘉智らの育成に関わり、自分の考えを押し付けない指導法に定評がありました。

田代流信念

ぬるま湯で練習が甘いと大洋時代いろんな評論家から言われ、解説者になり他球団のキャンプを観に行くと決して自分たちの練習が甘いものではなかったことに気付きます。でもなぜ優勝できなかったのか?まずはドラフトで入団してくる選手たちが力がない。フロントもチームが強くなると選手の年俸が上がるので優勝パーティで「来年は優勝しないでくれ」と頼む人まで出て主力の流出を容認していた。チームが一丸ではない。指導者たちが自分の野球を押し付け、その指導者が2年ぐらいでクルクル変わる。こういったことに田代氏は強く憤りを感じていました。だからこそ自分は現場の指導者として選手に寄り添いたいと。この気持ちが今のベイスターズの中でもとても重要なものになると感じています。





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