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侍ジャパン 今永昇太

21今永昇太とは?

北九州市立永犬丸中学校への進学後に軟式野球部へ所属。投手としては身体が小さく、野球強豪校からのスカウトを受けるほどの成績も残せなかったため、中学卒業後は自宅の近くの公立校・福岡県立北筑高等学校へ入学しました。北筑高校では硬式野球部に所属。同校は下校時刻が19時30分のため「平日の練習時間を2時間半に限る」という環境 の下で、1年生の秋から対外試合に登板しました。在学中は春夏ともに甲子園球場での全国大会出場は果たせませんでしたが、3年時の春季福岡県大会1回戦で折尾愛真高校打線から14三振を奪い、NPB球団のスカウトからの注目を集めました。卒業後は駒澤大学へ進学しました。駒澤大学では、1年生の春から東都大学リーグの公式戦に登板しました。1年時のリーグ戦では、当時4年生だった戸柱恭孝とバッテリーを組みました。2年生の春季リーグ戦からエースの座に就くきました。3年生の春季リーグ戦で3試合連続完封勝利を記録すると、秋季リーグ戦では、MVP、最優秀投手、ベストナインの3冠を獲得するとともにチーム26季振りの優勝に貢献しました。在学中はリーグ戦通算46試合に登板。18勝16敗、防御率2.03、281奪三振という成績を残しました。大学4年生時には、「大学ナンバーワンの左腕投手」と評価される一方で、左肩を痛ねんにhめて春季リーグ戦の登板を回避しました。秋季リーグ戦で復帰したが調子が上がらず、チームも2部に降格しました。その影響でNPB入りを真剣に悩んだことから、プロ志望届を提出したのは、締切の2日前でした。結局、この年のNPBドラフト会議では高校時代から調査していた横浜DeNAベイスターズから1巡目で単独指名。16年にベイスターズに入団すると先発ローテに入り5試合先発中4試合でQSするも開幕4連敗。特に阪神戦では14奪三振するも負け投手になりました。5月にプロ入り初勝利をあげると8勝し、チームのCS進出に貢献しました。17年は左のエース格として11勝をあげてチームのCS進出、日本シリーズ進出に貢献します。17年秋、18年春に侍ジャパン代表として選出されると18年に貼るには左肩に違和感を覚えます。18年はこのため4月後半まで一軍登板が遅れ、不調もあって4勝しか挙げることができませんでした。オフにオーストラリアのウィンターリーグに派遣され、6試合に先発し、4勝0敗、防御率0.51で57奪三振をマークしながら、1与四球という圧倒的な成績を残しました。ウィンターリーグ派遣については左肩を故障した選手を酷使しているとかベイスターズファンから批判が相次ぎました。しかし春には侍ジャパンのメキシコとの強化試合に選出され結果を出しています。19年には入団後初めてのレギュラーシーズン開幕投手として、3月30日の対中日戦に先発。8回無失点の好投でシーズン初勝利を挙げるとともに、チームに8年振りの本拠地開幕戦勝利をもたらしました。5試合に先発した5月は、リーグトップタイの4勝(1敗)、リーグ2位の月間防御率1.78を記録するなど好調で、セ・リーグ投手部門の月間MVPを初めて受賞しました。さらに、セ・リーグの監督推薦選手としてオールスターゲームに初出場。リーグ戦の再開後は、山口俊などとの間で、最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振のタイトルを争いました。結局はタイトルと無縁であったが、チームトップ(リーグ2位)の13勝、リーグトップの3完封勝利を記録するなど、チームの2年振りCS進出に貢献。本拠地・横浜スタジアムで初めて開催されたCSでは、阪神とのファーストステージ3試合中2試合に救援で登板したが、ステージの突破までには至りませんでした。オフの11月に開催された第2回WBSCプレミア12の日本代表に選出されました。同大会では11月14日のメキシコ戦で6回を1失点に抑えました。

豊富な球種

スリークォーターから伸びのあるストレート、スライダー、チェンジアップ、カーブを投げ分けます。リリーフ時には自己最速152km/hを記録しました。2019年からは、後輩の東克樹から伝授された130km/h台前半で変化するチェンジアップ(自称チェンジフォーク)や、140km/hで変化するスラッターを軸にした投球スタイルにしています。DeNAに1位指名された際には投球スタイルが杉内俊哉に似ていると紹介されました。ストレートは高校2年生の秋から肩甲骨の柔軟な動きを意識したトレーニングの成果によって球速が短期間で大きく向上し、3年生の時には常時140km/h台を計測するようになりました。

ラミレスの配慮

連投が相次いだ大学時代には、体調が万全な時に奪三振の山を築く一方で、スタミナが切れた時に集中打を浴びるという傾向が頻繁に見られたました。ベイスターズへの入団1年目に監督へ就任したラミレスは、今永を先発に立てた同年の公式戦で投球数が85 - 100球前後へ達するまでに今永を交代させる方針を取りました。「若い投手は(1試合あたりの投球数を)ある程度制限することが将来につながる」との持論によるもので、6月上旬から今永が不調に転じると、休養やコンディション調整を目的に二軍への降格を即断しました。今永も1か月余りに渡っての二軍調整を経て一軍へ復帰すると、レギュラーシーズンの終盤まで先発で好投を続けました。以上の方針について、チームのクライマックスシリーズ進出決定後には「二軍で過ごした経験がなければ、今、元気に一軍で投げられているとは到底思えない。『ラミレス監督には本当に大事に起用していただいたな』と思っています」との言葉でラミレスに感謝の意を示しています。

意識高い系

19年オフもドライブラインベースボールでトレーニングしたり、18年オフのオーストラリアでのウインターリーグ参加にしても今永は常に自分のレベル向上のために新しい努力をしています。日頃一切の努力をせず保守的に生きているベイスターズファンからすると新しいことに挑戦すると酷使だ、調子が狂うと批判的な目でSNSに書き込んだりします。しかし今永は今の自分では次の年は結果が出ないと自分を進化させることを考えているし、チームもそれを応援しています。このような関係があるからこそ、うまく行かないシーズンがあっても次のシーズンでリベンジできたのです。今永の新しい挑戦を応援したいです。

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