2年連続首位打者鈴木尚典

安打職人鈴木尚典とは?

浜松から横浜高校に入学した鈴木選手は高校では当初捕手でしたが肩を痛め外野手に転向します。外野手としてスローイングの問題はプロ入り後も尾を引きます。打撃の良さで1年から4番を打った鈴木選手は高校通算39本塁打の記録を引き下げて地元横浜大洋へ4位指名で入団します。横浜高校から横浜大洋へ直接ドラフト指名をされたのは85年入団の相川投手以来2人目ということで、横浜高校と横浜大洋との間で地元優先指名みたいな間柄はないことがわかります。鈴木選手は入団2年間二軍でもほとんど打てず、入団3年目竹之内打撃コーチと出会い開眼します。二軍で4番を打つと.280の打率で一軍への足掛かりをつかみます。守備に難があったため94年からの一軍での立場は代打でした。5年目にはレギュラーに定着して2桁本塁打と安打も95安打放ちます。96年規定打席に到達するもわずかに3割を切ると、97,98年は.335、.337を記録し2年連続首位打者で98年優勝の3番打者として活躍します。レギュラー定着にあたり守備の強化をするため横浜スタジアムで試合終了後、青山コーチに午前1時過ぎまでノックを打ってもらい練習しました。またスローイング問題では権藤氏が投手コーチに就任すると投手だけでなく鈴木選手のスローイングも指導して、だいぶ良くなりました。本塁打も97年に20本塁打放つなど長打があるところも見せました。鈴木選手が活躍した90年代後半はローズという勝負強い打者がいたため、チャンスで打点を稼ぐことよりもチャンスを潰さない、チャンスメイクすることに専念できたため打撃の型をしっかり作り、自分の打撃だけしていればよいという立場でした。99年も首位打者争いをしますが同僚のローズが首位打者となり3年連続首位打者はなりませんでした。01年森監督が就任し、ローズが退団すると鈴木選手は4番を任されます。キャンプで臨時コーチに落合氏が就任すると4番打者養成のため鈴木選手に指導します。バックスピンをかけてフライをあげる練習を続けると元々ベイスターズの多くの指導者がゴロを打つ練習をさせるのと真逆であるため打撃フォームを崩します。打率こそ3割に復帰しますが、本塁打は1桁に終わります。02年にはさらに打率も落とします。03年大チャンス打線の山下監督が就任すると自由に打てるようになり3割復帰、19本塁打を打ち復活かと思わせます。04年強打の2番打者構想で山下監督から鈴木選手は2番打者を任されますが、旧来の2番打者に拘り打撃を崩します。そこからは不調が続きます。07年に大矢監督が復帰すると鈴木選手復活プロジェクトを立ち上げレギュラーに返り咲きます。しかし調子を落とし最終的には控えに回ります。08年いっぱいで鈴木選手は引退します。DeNAになってから球団職員としてベースボールアカデミーの指導者などを経て、20年からは独立リーグ神奈川フューチャードリームスの監督となります。

51→7→51

同姓のイチローより1年先に背番号51を付けた鈴木選手。97年首位打者を獲ると憧れの吉村選手と同じ背番後7に変更します。07年大矢監督のもと再起をかける時には若手時代の51に戻します。背番号7は後に横浜高校の後輩石川選手が付けることになります。

打撃指導に翻弄される

広い横浜スタジアムに移ったということで大洋のコーチ、ファンもゴロを転がす打撃というものが好みです。ヒットの延長が本塁打とかいいますが、内野ゴロの延長で本塁打を打つべきと考えているファンも多いです。ランナー1,2塁でポップフライで1アウトより、セカンドゴロもしくはショートゴロでダブルプレーの選手が賞賛される環境にありました。そういった中でフライを上げるという01年の落合臨時コーチの指導は鈴木選手には合いませんでした。私が見た試合では鈴木選手は3打席連続ダブルプレーという場面がありました。私自身は鈴木選手は良くない方向に行ったなと思いました。ランナーがいる場面でゴロを転がすというのはダブルプレーになる確率が高いということはなかなか理解されません。鈴木選手はこのあたりで打撃指導も含めファンの反応などに翻弄されて自分の打撃を見失ったのだと思います。今のベイスターズに鈴木選手が入団していたらまた違った活躍があったのかもしれません。


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