横浜ベイスターズの終焉

2010年巨人の投手コーチだった尾花氏が監督に就任しました。球団フロントも日産からの佐々木社長、村上GMが退任し、電通やドラマ制作会社CALを経験した加地社長が就任しました。本当にベイスターズファンのいいおじさんという感じでした。電通では横浜支社が長く横浜財界と球団とのパイプ役でもあり、TBSオーナー末期の収拾のためご苦労されました。

尾花監督はアナラインジングベースボールを掲げ、球団にデータ分析室を作ってもらい前任の田代監督代行らに選手のデータを入力してもらい自チームの分析をし、また他チームについてのスコアラーからのデータを入れました。投手交代が多く「マシンガン継投」とも言われました。この年は内川以来の高校生野手ドラフト1位筒香が入団し、シーズン終盤にはホームランも打ち明るい兆しもありましたがチームの士気は上がらず最下位。シーズンオフにはFAで「横浜を出る悦び」を語った内川がチームを去りました。

10年オフはTBSがチームを身売りしていることが発覚。LIXILという建築材料・住宅設備大手がその身売り先とのことでした。しかしLIXIL自体が「横浜を出る悦び」がなければ球団取得できないという条件を出しとん挫しました。ここで横浜スタジアムにおけるオーナーズシートや横浜財界との利権、グッズをはじめ物販、チケット、球団使用料に関しての球団の弱い立場が露呈したのです。TBSとしても2001年に球団取得時は巨人戦の視聴率がよく、売上も伴ったため放映権の優先的取得は魅力的でした。しかしこの頃になるとプロ野球中継の視聴率の低下から編成することもままならず、球団としても放映権が売れないという事態でビジネスモデルの転換期にきており売却せざるを得ませんでした。

こういったチームの混乱の中、11年尾花監督は指揮を執ります。内川に代わり、楽天を戦力外になっていた中村ノリを獲得。しかしチームの状態は上向かず、若手も伸びてこないまま最下位に終わります。

11年オフにようやく次のオーナーが決まります。DeNAというデジタル企業です。モバゲーという携帯電話ゲームが人気でした。加地社長の努力で横浜を本拠地にすることの確約を得て着地。ただしチーム名は「横浜ベイスターズ」から「横浜DeNAベイスターズ」へと変わります。この変更に関しては失望するファンも多かったです。またDeNAという新興企業に対するファンの不安も多かったようです。DeNAは球団を整えるにあたり、GMに日ハムでGMをしていた高田繁氏を招聘します。TBS時代監督は3年目に少しだけ突入した大矢氏を除き全員2年以内で退任していました。その都度、連れてきたコーチも変わり、トレードやFAで獲得したお気に入りの選手も次の政権で放出されチームは揺れ動き、選手は方針がコロコロ変わるためやる気をうしなっていました。その対策が高田GMです。監督候補にはコーチを選ばせないという方針で面接。最後は現ソフトバンク監督の工藤氏か、巨人一筋の中畑氏のどちらかとなり、中畑氏がDeNA初代監督に就任しました。

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