管理野球ID野球の申し子 尾花高夫

尾花高夫とは?

PL学園のエースから根本陸夫が深く関わっていた新日鉄堺へ入ります。目立った活躍はなかったもののコントロールが良く広岡監督好みとヤクルトが77年ドラフト4位で指名します。78年の優勝、日本一の場面では登板数は多くないものの1年目から出場します。2年目以降は先発ローテに入り、80年代の強くなかったヤクルトのエースとして活躍します。6度の2桁勝利をするなど大活躍でしたがチームが弱く最多敗戦投手を3年連続で喫します。関根監督時代の89年まではエース格でした。90年に野村監督が就任すると若手への切り替えもあり登板が減り91年限りで引退します。しかしながら90年にエースとしてルーキー捕手の古田を信頼せず、サインを一切出すことを許さないなど投手としてのプライドが高いエースでした。95年ロッテGMになった広岡氏に請われてロッテの投手コーチとなります。バレンタイン監督のもとでロッテを2位に導くと同時に広岡GMからのコーチとして管理野球を実践するための教えを忠実に守ります。96年江尻監督の下でロッテは最下位になると尾花氏も退団。97年に野村監督のヤクルトにコーチとして復帰、優勝日本一に貢献します。98年にヤクルト退団後、99年からは王監督のダイエーで投手コーチを務め7年間でチームを3度のリーグ優勝、2度の日本一へ導きます。家族の事情で東京近郊の球団へ移りたいという希望があり、06年から巨人のコーチになります。チーム防御率を2点台にして07~09年の巨人3連覇に貢献します。09年チームが崩壊状態になったベイスターズが投手コーチとして実績のある巨人尾花氏を監督に招聘したいと巨人にお願いし、尾花氏の承認も得て巨人との契約期間途中でベイスターズ監督に就任します。「穴ライジングベースボール」というデータ野球を掲げ船出します。しかし2年間の監督生活でチーム防御率は最下位、チームも最下位で11年オフに解任されます。その後は巨人のコーチに復帰し、19年からは秋田の明桜高校の総監督兼コーチとしてアマチュアの指導をしています。

広岡、野村、王、原の薫陶を受けた男

尾花氏は勉強家でコーチとして優秀でした。広岡GMのもとできついぐらい勉強させられ、野村監督の下でID野球を学びます。王監督の巨人王道の野球を知ると原監督の懐刀として活躍します。しかしながらベイスターズでは巨人の選手などができる当たり前のことが、どの選手もできないという現象に悩まされます。尾花氏はこれまでの球団で発言していたようなネガティブ的な表現で選手を奮い立たそうと指導しますが、選手は傷つき尾花氏から離れていきます。今までの球団とベイスターズでは環境が違うということを受け入れられなかったことは残念でした。

アナライジングベースボール

詳細なデータで説得力を持たせた上で何をしなければならないかを徹底的に分析し、指導・采配を採るという采配方針を掲げました。投手は四球を減らし、打者は四球を多く選ぶことを選手に求めました。当時のベイスターズにはデータ分析のスペースもなく、情報管理も一元化されていなかったので横浜スタジアムの監督室横に小さなデータ分析室を作ってもらいました。

マシンガン継投

データに基づいた継投をするため2011年シーズンの投手登板延べ人数664人というプロ野球記録を打ち立てています。尾花監督が指揮を執った10,11年はTBSが身売りを検討していた時期と重なり、10年オフにはチームの主力内川がFAで抜けるなど球団自体が弱体化していた時期だったことはかわいそうだったといえます。

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