ベイスターズドラフト回顧 1969年

第5回ドラフト会議

1位 荒川堯
2位 間柴富裕
3位 谷岡潔
4位 松島英雄
5位 石幡信弘
6位 藤田賢治

この年のドラフトの目玉は早大の谷沢健一、荒川堯、日大佐藤道郎、東海大上田二朗、そして甲子園アイドルの元祖、三沢高校太田幸司投手でした。大洋の指名順位は3番目です。巨人コーチの荒川博氏の義理の息子である荒川選手は巨人かヤクルト以外は断るということでしたが強硬指名となりました。前年巨人以外お断りとしていた法大田淵捕手が阪神入りしたことから誠意を見せれば入団するだろうという大洋球団の読みは外れて頑なに入団拒否でした。1970年の1月にトレーニング中の荒川選手が熱狂的な大洋ファンから教われ後頭部および左手中指に亀裂骨折し、プロ入り後事件の後遺症でボールが見えなくなり引退を強いられました。大洋は1970年の10月にヤクルトへのトレードを前提として荒川選手と契約。12月にはヤクルトにトレードされました。これが三角トレードと呼ばれ、ドラフトを形骸化するということでドラフトの根本を揺るがす事件となりました。三角トレードはこの後江川事件でもコミッショナー裁定で行われましたが、希望球団に行くための強硬手段が横行する可能性がある順番に指名していくドラフトは荒川事件、江川事件を経て40年以上封印されています。ドラフトの順番が上位なのに特定球団を希望している有力選手を指名しないことを道義的に攻める雰囲気があったこともドラフトによる犠牲者を出した原因と言えるでしょう。大洋は事実上ドラフト1位指名を失った形となりましたが、2位の比叡山高校間柴は左腕として活躍し、特に日本ハムに移籍してからは無敗記録を作るなど21年間に渡り現役でした。3位の松山商谷岡は漫画家の谷岡ヤスジさんの親戚として有名でした。1位の荒川以外は全員入団しましたが(厳密には荒川もユニフォームに袖を通している。)間柴のみ戦力となったドラフトでした。

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