古葉監督大洋で鉄拳制裁できなかった訳

お断り

今回の記事の中には一部の方に不快な印象を与える記述がございますことを予めお断り申し上げます。あくまで1ファンの私見ですので科学的根拠や歴史的史実に裏付けられた記述でないことをお詫びいたします。

外様監督の悲哀

古葉監督と言えば1970年代半ばから1980年代前半にかけて広島黄金時代を作り、1985年に広島を退団すると1987年に広島から木庭スカウト、雑賀マネージャーやらフロント、寺岡ヘッドコーチはじめ5人のコーチを連れてきました。ぬるま湯と言われた大洋ホエールズが広島カープの猛烈練習で変わると言われました。1987年から5年契約と言われた古葉監督でしたが5位、4位、6位とBクラスで3年間過ごすと退団を迫られました。古葉監督は後年「私は選手を鍛え直すため、ハードな練習を課しました。「うるさいこと言うなあ」と思われていたことでしょう。しかしカープの選手との違いは明らかでした。例えば広島で「練習の虫」と言われた高橋慶彦選手はティー打撃から強振し、1日に何百スイングもこなしました。一方、大洋の選手は(約200球入る)籠の球を振っただけで、脚が痛いと訴えるケースもありました」と述べています。強く練習を選手たちに強いれなかったのは外様の悲哀であるとも言われます。


エース遠藤の離脱

古葉監督初年度の10月にエース遠藤投手が試合中の走塁でアキレス腱を切ると1988年、89年はほとんど活躍できませんでした。遠藤がいればという意見もありますが、山下、田代、若菜といった古葉監督が好きなタイプではないベテランの起用が減り、小器用な選手が重用されたこともチームのスケールを小さくした原因でしょう。

暴力は愛情の裏返し

鉄拳制裁といえば古くは川上巨人軍、そして古葉広島、広岡、森の西武管理野球、星野野球など指揮官に絶対服従の野球をする場合には日本では必要悪とされてきました。徹底的に選手の人格を否定する広岡、森を除けば、鉄拳制裁には愛があるといいます。それは厳しい練習に選手が成長で応えてくれるからです。大洋の選手たちは後の森監督時代もそうですが、よく言えばマイペースで、体がきつければすぐ音を上げて逃げることが得意でした。そういったマイペースの選手に対して監督たちも暴力が響かないと感じると淡々と接してしまうというところがあるのでしょう。暴力は愛情の裏返しと言いますが、暴力をふるうほど愛情が注げなかったという悲しい事実だけが残ったともいえます。

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