長嶋茂雄招聘と横浜大洋

80年に別当氏が球団代表になり事実上のGMとして機能するが肝心の土井監督が標榜する走る野球が機能しない。ドラフトでも2年連続即戦力左腕木田投手を外し、代わりに獲得した高校生投手は通用しないという状態。80年オフには地元神奈川の主砲原辰徳を指名するが外してまたも高校生投手を指名。この年、大洋漁業本社筋の中大枠でドラフト3位指名したのが高木豊。東都では近鉄2位の大石と並ぶ内野手だった。原を外したフロントは高木に左の長嶋茂雄という評価をしていたようだがタイプはかなり違う打者だとキャンプで首脳陣たちは知るという状態でした。

80年オフには巨人長嶋監督が解任されて球界に衝撃が走りました。そして王も引退するという中で巨人監督に就任した藤田監督は慶大の先輩別当に引退を決めていた松原を王の後釜に譲ってくれるように頼みました。大洋内でも生え抜きの主導権争いが出始めていた時期でした。明大5人衆の秋山は既に監督で結果を残せず退団。土井も2位でバトンを渡され優勝が期待されたのに4位。江尻、松原、平松という主力が次世代と目されていました。松原は生え抜き初の名球会入りを決めて一歩リードかという場面で巨人へのトレードが決まりました。一方名球会入りまであと少しの平松についてもトレードの噂が絶えません。また守備に難があり、確実性に乏しい若き主砲田代についても「広い横浜スタジアムで長距離砲はいらない。」とトレードを働きかける人もいたようです。

優勝が期待されたのにBクラスだった大洋はアリゾナ州メサで2年目となる海外キャンプを張るが野球用具が盗まれるなど散々なスタートを切りました。外国人はロイヤルズでレギュラー一塁手だったラコックを獲得。ピータースというマイナーの外野手と共に長打が期待されたがラコック自体は守備の人でトラブルだけが目立った選手でした。チームはバラバラとなり、特に巨人には4勝20敗2分と大きく負け越しました。この時、横浜大洋銀行というあだ名が付きました。9月には土井監督が途中退団します。その直後には大洋本社は長嶋招聘を発表。土井氏は「最下位のチームを引き受けたかった。2位で引き受け優勝の期待が重く辛かった。」と後に語るように2位のチームを引き継ぐ監督は相当な器でないと厳しいということがわかります。

長嶋氏への親書を託されたのは大洋球団の株主でもあったニッポン放送の深沢アナウンサー。長嶋氏の回答がいったん保留となると長嶋巨人第一次政権でヘッドコーチだったニッポン放送解説者の関根潤三氏が監督に就任します。会見で長嶋監督就任までの中継ぎであることを明確に示したスターとなります。長嶋氏が巨人に欲しいといっていた東芝府中の落合より上と言われた東芝菊池を指名。外国人は78年レッズ来日時に長嶋氏が獲得を熱望したラムを獲得。もう一人は長嶋監督と親交があったアスレチックスのマーチン監督の秘蔵っ子ブタスカ。最下位になってボロボロの大洋を救うため長嶋監督就任までの基礎作りとして関根監督は異例のスタートをしました。

#横浜DeNAベイスターズ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?