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優勝監督 権藤博

権藤、権藤、雨、権藤 権藤博とは?

鳥栖高校時代は内野手だったものの途中、投手が足りなくなり登板するという中でプロからも誘いがあった権藤氏。社会人のブリヂストンに入ると投手として頭角を現し、都市対抗野球で日鉄二瀬に補強され、その時の監督濃人氏が中日に行くことになり誘われ中日入りしました。権藤氏はプロ1年目から35勝あげます。69試合に登板、44試合が先発で429.1回投げています。「権藤、権藤、雨、権藤」とは中日では常に権藤氏が登板していることを指した流行語です。2年目も61試合に登板し30勝。362.1回投げています。過酷な登板だけでなく、当時は肩は冷やしてはいけないと登板後肩を温めてるという医学的に間違った投球後の措置により、3年目からは肩を痛め球威が落ち3年目10勝、4年目6勝と力を落とし打者に転向します。その後投手に戻ったりしましたが9年目で引退を決意します。この時の権藤氏の過酷な登板を阻止できなかったとして、投手コーチだった近藤貞雄氏は投手分業制を研究し実施します。引退後は解説者やサラリーマンを経て73年にオリオンズで投手コーチを務めていた近藤貞雄氏と共に与那嶺監督から中日コーチへ招聘されます。特に81年からは恩師ともいえる近藤貞雄監督のもとで権藤氏は一軍投手コーチとして優勝を経験します。牛島をクローザーに据えて、都、郭といった若い投手を先発の軸としてローテーションを守る野球を実践します。その後、近鉄のコーチ時代には吉井をクローザーにして、山崎の育成、加藤哲郎の再生、阿波野の登板過多を抑え優勝に貢献します。しかし仰木監督と投手起用で揉め、契約期間中に退団するというトラブルを起こしますね。91年からはダイエーでコーチに就任。ここでは阪神から移籍してきた池田をクローザーにしますが成績は振るいませんでした。97年にベイスターズの一軍投手チーフコーチに就任するとシーズン途中からは実質投手に関しての指揮を権藤氏が執ることになります。攻撃時にはベンチの前の方にいる大矢監督と守備時には権藤氏の位置が入れ替わり、指揮官の変更がわかるような試合もありました。この年ベイスターズは79年以来の2位になります。しかしながらフロントは打撃チーフコーチの弘田、そして采配に思い切りがないと大矢監督を解任します。権藤氏も責任を取って辞任をしようとしますが球団預かりとなります。球団は西武の監督を辞めて解説者をしていた森氏を監督に招聘しようとしていましたが、巨人からの誘いもあり森氏はベイスターズを断ります。結局、渡辺オーナーの一言で長嶋監督が巨人の監督に留任し、森氏は解説者に留まります。森氏が断るとすぐに球団は権藤氏を一軍監督に昇格させます。ベイスターズの選手たちはヤクルトに負けて2位になった悔しさとベイスターズ創設時から一緒に汗を流した大矢監督、弘田コーチを解任させてしまった負い目に燃えていました。そこを権藤氏がうまく後ろから後押しして98年にチームを38年ぶりの優勝、日本一に導きました。99年は燃え尽きた感じのある選手達をうまく煽てながらAクラスをキープします。98年優勝後に選手の年俸が高騰することを嫌がるオーナー企業の役員から「来年は優勝するな」と言われるなどチームを取り巻く環境も選手を燃えさせませんでした。00年になるとミーティングを開かず、個別の選手との飲食を共にする権藤氏に対してチームリーダーの石井や駒田が反旗を振り、チームは分裂状態になります。そんな中でもAクラスをキープし監督しての契約期限が切れると任期満了で権藤氏はベイスターズを退団します。シーズン中から石井などからきちんとした管理野球で監督の野球を上意下達の中でプレーしたいという声が上がります。そして巨人復帰の芽がなくなった森氏を再度招聘し、放任野球、自分で考えてプレーする野球から180度方針変更がはじまるのです。権藤氏は解説者に復帰しますが、常に巨人等からコーチの誘いがあったようです。ベイスターズを退団してから12年経って中日の投手コーチに復帰します。ただし1年で退団し、その後は日本代表のコーチなども務めました。

アメリカナイズされた指導

権藤氏の指導は見守る指導です。アメリカでの野球留学で何も教えないコーチを徹底して研究したようです。選手の自主性を尊重しながらチームを勝利に導く指導者としての手腕は、球界内でも評価が高いです。日本ではコーチが細かく教えてフォームを弄ったり、ある特定のフォームだけが素晴らしいという人が多いのですが選手の個性を尊重する権藤氏を師と仰ぐ選手は多いです。

「Kill or be Killed(殺るか、殺られるか)」

権藤氏は投手に「Kill or be Killed(殺るか、殺られるか)」と書いたサインボール1個ずつ渡し、選手を大人扱いして覚悟を持って登板させました。逃げる野球を嫌がり、逃げる選手は使わないという主義でした。ブルペンに打者の人形を置いて内角ギリギリ当たらないぐらいのボールを練習させ、打者に踏み込ませない投球を練習させたのも権藤氏でした。こういった野球に内角球は卑怯と考えるベイスターズファンが多いために批判がありました。教え過ぎないだけでなく、ミーティングをせず、サインもあまり出さないため、そういった野球に慣れていない選手やファンの不満を溜めてしまったのは残念でした。

ラミレスとの共通点

権藤氏はラミレスの野球を自分の野球に近いと言っています。選手に考えさせ選手の自主性を重んじる野球です。ベイスターズファンの中にはこういった野球が嫌いな人も多く、選手は監督の奴隷であるべきという意見から批判されます。しかしながら監督の考え方さえ選手に伝わっていれば、自主性を持った選手の方が力を発揮するのではないでしょうか?権藤氏の野球というものを改めて再発見するこの頃です。

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