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バットコントロール神 楠本泰史

37 楠本泰史とは?

小学6年時に神奈川県横浜市へ転居したことを機に、転校先の横浜市立山内小学校で松井裕樹(現楽天)と出会います。横浜でも野球を続けようとしていた楠本は松井から「俺らとやろうよ」と誘われ、松井が当時所属していた元石川サンダーボルトに入部。その後松井に「セレクションを一緒に受けよう」と言われ、横浜ベイスターズ(当時)のジュニアチームを受験。二人とも合格し、この年のNPBジュニアトーナメントに出場しています。なお横浜市立山内中学校に進学後も、松井とは青葉緑東シニアでともにプレー。3年夏には日本リトルシニア野球選手権大会で日本一に輝いています。花咲徳栄高等学校に進学後は1年秋から内野手としてベンチ入り。入学当初は「打球が外野の頭を越えることがなかった」ですが、岩井隆監督の元でミート力を磨きレギュラーに定着。2年秋には野球部を県大会優勝、関東大会準優勝に導きました。3年春には第85回記念選抜高等学校野球大会に出場。初戦の岐阜商戦で3番遊撃で先発するも無安打に終わり、チームも初戦敗退しました。その後の県大会も予選敗退し、夏の甲子園には出場できなかった。なお同学年にはオリックスにドラフト3位で指名される若月健矢がおり、楠本自身も当時からプロ志望でしたが、若月の存在や岩井監督の助言もあり大学進学を決意します。東北福祉大学へ進学後は、1年春からレギュラーで仙台六大学野球のリーグ戦に出場。4年間でリーグ通算99安打を放ち、最優秀選手賞と打点王2度、本塁打王、首位打者を1度獲得。また大学代表にも通算3度選出され、第41回日米大学野球選手権大会や第29回ユニバーシアード競技大会では4番を務めました。大学時には右肩を痛め、一時は一塁や指名打者として出場することもありました。また強肩を活かすため、4年次に内野手から外野手へ転向しています。大学日本代表の4番打者でしたが肩を痛めており外野から満足な送球ができなかったこともあり、17年ドラフトでは指名全82選手の下から2番目ベイスターズのドラフト8位で指名されました。ベイスターズジュニア時代から楠本はチェックされており肩も致命的なケガではないと判断して指名されました。18年の1年目から開幕一軍でした。スタメンでの出場もありましたが走塁ミスで二軍落ちです。ミスに厳しいラミレス監督から二軍での修行をいい渡されて5月末には一軍復帰。1年目は56試合の出場で、打率.205、2打点、2盗塁でした。2年目の19年はオープン戦で12球団トップの打率.388(49打数19安打)を記録し、2年連続で開幕一軍入りし開幕スタメンも経験しました。その後は打撃不振もあり2年目は39試合の出場で終わりました。

バットコントロール

入団して2年は打率2割ちょっとと本領発揮できていませんが、バットコントロールがよく的確にミートすることで楠本は定評があります。選球眼もよいため3年目を迎える20年には代打の切り札、また固定されない1番バッターとして重宝する可能性があります。

元西武の大塚光二氏絶賛

楠本が在籍した東北福祉大の監督は元西武の大塚光二氏。プロ経験者監督が楠本は即プロで通用すると語っていたように開幕から一軍デビューでした。ただしベイスターズの外野手は梶谷、神里、佐野、乙坂、宮本、関根と左の外野手が多いだけに飛び抜けた活躍が必要となります。

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