ハマの番長 三浦大輔

無名のドラフト6位からのし上がった 三浦大輔とは?

91年の奈良県予選の決勝で巨人ドラフト1位谷口を擁す天理に敗れた高田商のエースが三浦投手でした。キレのあるボールと130㌔台に迫る速球が武器でしたが体が細くプロからの評価は低かったようです。評価していたのは大洋スカウトの高松氏と三浦投手の実家生花店が花を配達していた縁で小さい時から三浦の運動神経を評価していた阪神岡田選手だけでした。ドラフト1位で斎藤隆投手を抽選で勝ち得た大洋は下位で将来性のある投手をということで4位斉藤肇投手と6位三浦投手を高校生投手として指名します。4位の斉藤肇投手は広島と競合し、外れた広島は金本選手を指名します。体のこなしが良い三浦投手は高卒ルーキーながら入団1年目から一軍登板を果たします。入団2年目には初勝利と初完投をあげ先発投手としての道を歩き始めます。入団4年目には8勝で先発ローテに入ると入団6年目97年には初の2桁勝利を飾ります。この間、肝機能障害で苦しみますが食事の改善などで対応して、現役時代は病気と付き合いながら活躍することとなります。98年には背番号18を付けてマウンドに立ち2年連続の2桁勝利で優勝に貢献します。しかし日本シリーズでは勝てませんでした。01年までは安定した成績を残しますが、02年に肘痛が出て手術、02,03年は活躍できませんでした。ただチームの主力が次々FAや契約切れで流出した時期でもあり、TBSにオーナーが変わったベイスターズは三浦投手と03年から6年契約を結びます。04年にはアテネ五輪代表となり、05年には最優秀防御率と最多奪三振のタイトルを取ります。06年二段モーションの禁止が規定され、フォームの改造をしますが成績は安定していました。08年オフにFA宣言した三浦投手は小さなころから憧れた阪神入りとベイスターズ残留で悩みますが、TBS側も三浦流出の影響はチームに計り知れないと緊縮財政の中で最大限の留意をして残留。09年は2桁勝利をあげます。しかし36歳を超えて三浦投手の投球はだんだん安定しなくなります。チームがDeNAに身売りされて12,13年は9勝と活躍しますが、ついには40歳を超えてしまい計算が立ちにくい状態となります。それでも15年には6勝をあげ、NPB記録の23年連続公式戦勝利をあげます。引退した16年は勝ち星はなかったものの24年連続安打を記録しました。これは投手としてはギネス記録だそうです。2016年9月29日の横浜での最終戦を引退試合として、感動の引退セレモニーが行われました。この16年チームは初めてのCS出場を果たします。19年には投手コーチとしてチームに戻り、20年からは二軍監督となります。

リーゼントスタイル

矢沢永吉に憧れ若いころからリーゼントスタイルが三浦投手のトレードマークです。引退セレモニーでは矢沢永吉さんからもメッセージVTRがありました。馬主としてもリーゼントブルースほか、リーゼントが付く馬を5頭ほど所有しています。

努力家

横浜スタジアムのスタンドは急こう配なのですが、観客が入る前のスタンドを三浦投手は登り、シーズン中も足腰の鍛錬、心肺機能の強化に余念がありませんでした。投げ込みの球数も多く、自分で目標を設定してそこへ向かって必要だと思われる努力をするタイプの選手でした。コーチとしても選手に対して根性で数をこなせとか、こういうトレーニングをしろというのではなくて必要性を理解した上で、上達するための数量をこなすことを奨励しています。

監督候補なのか?

三浦氏は20年二軍監督として就任しますが、フロントの発言やラミレス監督の発言も三浦監督が次期監督候補であることを匂わせています。横浜大洋、横浜ベイスターズ、横浜DeNAベイスターズの3チームで現役を過ごした唯一の選手ということで生え抜き監督としてのファンのボルテージは上がるでしょう。二軍監督としての指導力に期待したいです。

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