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左投げの石井琢朗 二刀流武田陸玖に期待


お断り

今回の記事の中には一部の方に不快な印象を与える記述がございますことを予めお断り申し上げます。あくまで1ファンの私見ですので科学的根拠や歴史的史実に裏付けられた記述でないことをお詫びいたします。

石井琢朗の新入団時の背番号の半分

武田陸玖は投手として入団した石井琢朗と同じ174cmの小柄な投手です。背番号は石井66の半分で33です。山形中央高校1年秋からエースを務め、投手の他に一塁手や外野手を務める二刀流として活躍しました。2年夏、3年夏の山形大会で決勝に進出したがいずれも敗れ、3年間で甲子園大会出場はありません。2023年のU-18ワールドカップの日本代表に選出され、投打に活躍して優勝に貢献しました。足の速い打者として注目されますが、体が使える投球も見事です。石井琢朗も小柄ながら球の切れがよく入団1年目から一軍のマウンドに立ちました。石井は入団3年目の1991年に二軍で投手のタイトルを総なめにしますが、翌年から打者転向します。投手として28試合一軍で登板し1勝しています。投手の時期と打者の時期が分かれているため二刀流とは言えませんが、入団時のイメージとしては武田と同じような感じです。

左の代打と左のリリーフの二刀流でスタートか?

高校出の選手なので二軍でしばらく育成と考えがちですが、ある程度体力づくりをしたら1年目から一軍で左の代打、左のリリーフという形で一軍を目指すのもいいかもしれません。先発投手の代打で出場し、そのままマウンドに立つなんていう起用もあるかもしれません。大谷のように指名打者と先発投手という起用はできませんので、しばらくは選手層を厚くするための起用というのもあるかもしれません。

投手で入団し、打者で活躍したベイスターズの選手たち

ベイスターズには投手で入団し、打者で活躍した選手がたくさんいます。
江尻亮 
早稲田大のエースとして46回2/3連続無失点のリーグ記録を樹立して大洋に入団、2年目までは投手としても起用されますが、2年目からはほぼ外野手となりベストナイン2回で1249安打を打ちます。1992年に大洋の監督(シーズン途中から)、1996年はロッテの監督も務めます。
屋鋪要
三田学園でエースとして活躍。早大進学が決まっていたため、どの球団も指名を回避するが大洋が6位指名。キャンプで外野手に転向すると1978年1年目の開幕から一軍で守備固め、代走として起用されます。1983年からレギュラーに定着し、1985年からはスーパーカートリオとして活躍します。1986年~1988年まで3年連続盗塁王。1984年~1988年まで5年連続ゴールデングラブ賞。1146安打です。
石井琢朗
足利工業で甲子園に出場。東洋大への入学が決まっていたため、ドラフトで指名がかかりませんでした。しかしヤクルトと大洋がドラフト外で入団交渉、投手として石井を見込んだ大洋に入団しました。1989年、1年目の開幕から投手として登板し、二軍では圧倒的な成績を残すも、一軍では結果が出ずに1992年に打者転向。転向2年目の1993年には三塁手としてゴールデングラブ賞、盗塁王にも輝きます。通算2442安打で名球会入りした打者で投手として勝利をあげたのは石井の他に川上哲治さんしかいません。盗塁王4回、最多安打2回、ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞4回という華々しい成績です。
金城龍彦
社会人住友金属時代エースとして日本選手権優勝。1997年に優秀選手に選ばれます。社会人時代は指名打者制度のため4年間打席に立っていません。1999年ベイスターズに入団すると内野手に転向。プロ入り後はじめてスイッチヒッターに挑戦し、2000年には三塁手としてレギュラーになり、首位打者と新人王獲得。2001年からは外野手に転向してゴールデングラブ賞2回獲得しています。通算1668安打で2006年WBC日本代表にも選ばれています。

武田は投手から野手転向組の先輩と匹敵する実績あり

武田は高校時代から野手としても注目されていた屋敷や石井と似たような境遇です。特に石井琢朗とは類似しています。投打でに高校日本代表に選ばれている実績は、投手から野手転向組の先輩に匹敵する、或いはそれよりすごい実績です。投手からの転向組の先輩である勝又も支配下登録されましたので、武田も切磋琢磨して石井琢朗クラスの活躍をして欲しいです。


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