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関根潤三さん安らかに

関根潤三さんがご逝去されました。

2020年4月9日関根潤三さんが93歳で亡くなりました。元祖二刀流選手ともいえる方で82年~84年に横浜大洋の監督をされていました。藤田省三が監督を務める旧制日大三中へ進学したものの、入学初年度は小柄だったため、練習に参加させてもらえませんでした。2年生に進級後ようやく参加できたが、それでも外野の球拾いでした。やがて、兼務していた法政大野球部に掛かり切りと成った藤田が去り、後任監督から2塁手として抜擢されたのが転機となり、試合に出場できるようになりました。投手に抜擢されたのも、この旧制中学時代の頃でしたが、杉下茂が居た旧制帝京商などに阻まれ、甲子園への出場は叶いませんでした。その後は法政大学経済学部に進み、藤田が監督を務めるチームで4年間にわたりエース(4年生春に主将)として活躍しました。3年生秋(1948年)にチームを戦後初のリーグ優勝に導き、翌4年生秋には戦後初・史上2人目の通算40勝を記録しました。大学通算79試合登板、41勝30敗。毎試合のように先発し、当然のように1試合を投げきったのです。エースの連投が当たり前だった当時の東京六大学ではあったが、通算658イニング、シーズン投球回数133回2/3(1949年秋季)、勝敗通算71(若林忠志と同数)という記録を残しました。1949年秋には来日したサンフランシスコ・シールズ相手に好投しました。打者としても93試合に出場し350打数93安打、打率.266、0本塁打、38打点を記録しました。1950年に恩師藤田が監督を務める近鉄に入団します。巨額の契約金をもらい開幕の直前まで銀座のクラブなどで遊んでいたようです。そのためプロ入団初年の開幕2戦目にして、肩を壊していたそうです。それ以降は、本当の球の力が戻らなかったそうです。「カーブやフォークは遊びであり、ピッチャーでまっすぐが通用しなくなったら終わりだ」との自論もあって、プロ8年の投手人生に見切りをつけ、打者に転向したとのこと。 始めは、旧制中学からのチームメイトであった捕手の根本陸夫に転向の意思を打ち明けました。関根の球威に限界を感じていたのか、根本からは反対されませんでした。もともと野手顔負けの打撃力を備えていたこともあり、右翼手あたりを狙って正式に野手転向を申し入れたものの首脳陣からは「転向しても下位打線では困る」と難色を示されました。そこで5番・右翼手としての3試合限定起用、クリーンナップとしての適性を試されました。すると、その初戦から1本塁打を含む3安打、2戦目で2安打、3戦目でも3安打して見事に難題をクリア。こうして1957年からは小玉明利を核とする中軸打者の仲間入りし、そこでシュアな打棒を振るいました。もっとも関根だけでなく小玉も長打力を持ち味としておらぬ中軸に代表される様に、打線全体としては他球団よりも爆発力で劣っており、後年「ピストル打線」とあだ名される所以でもあった。1965年に読売ジャイアンツへ移籍し、16年目38歳で初のリーグ優勝や自身のプロ生活唯一のポストシーズン(V9初年度の)1965年の日本シリーズ出場・制覇を経験し、同年に引退。若い選手からは「お父さん」と呼ばれていたそうです(監督の川上哲治以外はコーチも含めて全員年下だったため)。史上初めて、投手・野手の両方でオールスターに出場しました。投手としてファン投票で1回。外野手としてファン投票で1回、監督推薦で3回出場(長らく「史上唯一」であったが大谷翔平が2013年に野手として、2014年に投手として選出され、出場し2人目となりました。)。また、2リーグ制以後では唯一の防御率ベストテン入り、打率ベストテン入りの双方を達成。さらに、通算50勝、1000本安打の双方の達成は2リーグ制以後唯一であり、1リーグ時代を含めても他に中日などで活躍した西沢道夫しか達成していない記録です。

広島コーチとして

1970年、根本陸夫監督と広岡達朗一軍守備コーチの要請で広島東洋カープ一軍打撃コーチ(ヘッド格)に就任。山本浩二・衣笠祥雄・三村敏之・水谷実雄らを育て後の広島黄金時代の礎を築きました。特に夜遊びが多く門限破りの常連衣笠を合宿所で深夜まで待ち、夜の3時過ぎから素振りをさせるなど一流として開花させました。家庭の事情で1年でコーチを辞めますが後の広島黄金期に貢献しました。

巨人コーチとして

1975年には現役時代から親交のあった監督の長嶋茂雄の要請で、巨人のヘッドコーチに就任、同年球団初の最下位に終わり、1976年は二軍監督に就任します。この時入団してきた篠塚、中畑を鍛え上げファーム優勝に導きます。また投手では2年目の定岡、西本を育て、特に西本は3年目から一軍で飛躍します。

横浜大洋監督として

1981年オフ、長嶋の監督招聘を働きかけていた横浜大洋ホエールズに「長嶋監督が実現したら交代する」との条件で監督に就任。投手の遠藤一彦、野手の屋鋪要、高木豊らの若手育成に尽力しました。1年目の1982年は辻恭彦・加藤俊夫・福嶋久晃のベテラン捕手3人体制を編み出し、2年目の1983年にはレオン・リーと加藤博一をトレードで獲得し、チームを4年ぶりのAクラス(3位)に導きました。常に長嶋監督が来た時の編成を考えており、ドラフトでは長嶋氏がロッテ落合と共に熱望していた東芝菊池を獲得。外国人は長嶋氏の盟友ビリー・マーチンの秘蔵っ子マークと長嶋氏が78年来日したビッグレッドマシーンのレッズで活躍したマーク・ラムを巨人時代獲得したがっていたことから獲得にこぎつけます。捕手はベテラン勢が力不足、原辰徳の同期市川の成長が遅いと決断すると阪神を退団しアメリカにいた長嶋氏好みの若菜を獲得します。長嶋ファンだった平松も関根監督就任時に引退をほのめかしていましたが、恩師藤田省三氏のコーチにより蘇り長嶋監督のもとでプレーすることをモチベーションに200勝達成しました。長嶋氏が79年オフに行った伝説の伊東キャンプも大洋で実践。ニコニコしながら厳しい練習を強いていたため、田代などはこんなにキツイ練習はないと歩くのもやっとだったそうです。長嶋氏も一時は入団直前まで決意したと報じられましたが、周囲に止められ84年途中に大洋球団も長嶋氏獲得断念を表明しました。この年最下位だったこともあり、関根監督も退団しました。盟友の根本氏はこの時長嶋氏招聘失敗におわった経緯を関根氏から事細かに取材し、後にダイエーで王監督招聘の際参考にしたと言われます。

ヤクルト監督として

87年にヤクルトスワローズの監督として招かれます。ヤクルトでは大洋監督時代に一軍投手コーチだった小谷正勝を招聘、池山隆寛・広沢克己・栗山英樹・荒井幸雄・内藤尚行・伊東昭光(1988年4月8日東京ドーム初の公式戦でセーブ記録)・荒木大輔・秦真司・笘篠賢治らを起用し、後任の監督野村克也にわたり起用されるレギュラー選手として育てあげました。ここでも長嶋監督招聘という動きはあり、息子の一茂を指名し獲得するなど大洋時代と動きは似ていました。外国人も長嶋氏好きなバリバリのメジャーリーガーであるホーナー、デシンセ、パリッシュなどを獲得するなど楽しいチームに育てました。

盟友根本陸夫氏と

旧制中学時代、法大、近鉄とバッテリーを組んでいた根本陸夫氏とは盟友です。広島では監督とコーチの関係で後の名将広岡を発掘したり、コーチとして長く活躍する小森を発掘したりしていました。大洋時代には五月女、吉本といった選手のトレードをしがらみもあって実現させたりしました。二人とも育成の監督と呼ばれますがGM系監督といった方が正しいかもしれません。

謹んでお悔やみ申し上げます

関根さんはニッポン放送での解説で「よろしくどうぞ」がきめ台詞でした。優しい口調は好々爺という感じでしたが野球に対しては熱く滾るものがあったようです。野球の楽しさを伝えていただき心から感謝申し上げます。


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