大洋初のドラ1高卒野手谷繁元信

セ・リーグを代表する捕手谷繁元信とは?

88年ドラフト1位で江の川高校から大洋に入団した谷繁選手。広島では中学時代有名な選手だったが広島の有力校には入学できず島根の江の川高校へ進学。当初は投手だったものの打たれまくり捕手に転向しました。甲子園でベスト8に入ると強打の捕手として東の江藤とともに注目されました。谷繁選手は当初広島のドラフト1位が有力視されていました。広島の評価は捕手としてではなく内野手転向で強打者として育てるというものでした。広島は衰えが見える高橋慶彦の代わりになる遊撃手も探していました。山下が引退した大洋が指名すると言われていた駒大の遊撃手野村も候補となっていました。広島でスカウトしていた木庭氏が大洋のスカウトをしており広島側と調整しながら谷繁は捕手として大洋が単独1位指名しました。この年のドラフトでは2位も熊谷組の捕手宮里選手でドラフト1,2位が捕手という指名になりました。正捕手だった若菜が金銭トレードで日本ハムに移籍し、市川が正捕手になったばかりで谷繁選手ルーキーながら80試合に出場します。2年目も75試合に捕手として出場し正捕手を掴んだかと思われましたが、90年に西武からトレードでやってきた秋元捕手が落ちる球を確実に捕球するキャッチングで91年からレギュラーになります。90年には谷繁選手が高浦コーチに殴られて引退を申し入れる事件もあり、本人のやる気も微妙だった時期ができます。転機が訪れるのは93年です。横浜ベイスターズと名前が変わり球団も当時流行りの管理野球で優勝しようとヤクルト、西武で広岡、森の下でコーチを務め、巨人藤田監督の下でもヘッドコーチを務めた大洋OBの近藤昭仁監督が就任します。近藤監督がヤクルト時代一緒にやっていた大矢捕手をコーチとして招聘します。前年日ハム監督就任が直前でなくなった大矢コーチは谷繁を一から育てなおします。近藤監督の期間は秋元捕手が重用されていた感もあり、リリーフエースの佐々木もフォークボールを逸らす谷繁を嫌いました。しかし大矢コーチとの特訓で信頼を付けてきました。96年に大矢コーチが監督に就任すると谷繁選手が捕手のレギュラーとなり、当初はベンチからレシーバーで指示が出て配球をしていましたが徐々に谷繁リードが投手陣からも信頼を受けるようになりました。打撃も96年に捕手として3割を打ち、ホームランも2桁に乗るようになりました。98年の優勝時には捕手としてだけでなく打者としても十分に貢献しました。01年に権藤監督から森監督に代わると直接は言われないもののマスコミ経由で「谷繁より相川の方がいい」、「谷繁は捕手に向いていない。」、「リードがわかってない」などネガティブ評価が伝わり、大魔神佐々木がFAでMLBに移籍していたこともありMLB移籍を目指します。しかし良い評価が得られず、森監督の下でつまらない野球をするよりも自分を評価してくれるチームへ移籍したいと中日にFA移籍します。中日の正捕手だった中村が逆に金銭トレードでベイスターズに移籍する事態となりました。ベイスターズ最終年に20本塁打を放ち長打力も出てきた谷繁選手ですが、中日でもホームラン、打点は稼ぎます。そして落合監督の下で中日黄金時代の正捕手として活躍し、NPB最高記録の3021試合出場で引退しました。2014年からは監督兼任選手となり、2016年は監督専任で中日を指揮しますが監督としてはBクラスしか経験していません。落合氏が01年に森監督に請われて臨時コーチとしてベイスターズキャンプで指導していた時に谷繁には長距離砲の素質があり、チャンスに強いと見抜いていたことも落合監督、選手谷繁の信頼に繋がっていたのかもしれません。

次期監督候補なのか?

石井琢朗氏と共に98年V戦士として谷繁氏も監督候補に名前が上がります。谷繁氏の場合中日退団後DeNAベイスターズのイベントに積極的に参加しており、球団との繋がりも深く、ファンに対する球団のサービス姿勢を理解しているという点ではベイスターズ監督になる可能性は高いかもしれません。ホエールズ・ベイスターズOB会の副会長にも就任しており、選手にも認知度は高くなっています。なんらかの形でのベイスターズ復帰はあり得そうです。

88年大洋ドラフトとは?

88年の大洋ドラフトは1,2位を捕手指名した他、投手は5位の故石田投手(日石、取手二高で84年PLを破り夏優勝)以外は全員野手を指名。他に投手はドラフト外で石井琢朗を獲得したのみです。この年大洋ドラフトを語るラジオ番組になぜか私が出演、ゲストには引退したばかりの山下大輔さん登場ということもありました。




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