私とは、あくまでも名付け得る現象に過ぎない。

分離された存在という意味合いでの個人という概念が強過ぎるのが現代の多くの悩みの根底にあるようなそんな気がしている。

他者とは幻想である。そして私という概念すら幻想であるのである。であるからして個人という概念は幻想である。そしてあらゆる人間関係は幻想であり、それは悩むに値しない。

私は存在しない。思考する主体が存在するにしてもそれは私の核であると考える必然性はない。コギト・エルゴ・スムは思考主体が少なくとも存在するという最低限の主張であるに過ぎず、私という概念に核が有り得るという主張ではない。

本当の自分、等身大のあなた、裸の人格、そんなものはない。自己とは思考主体を包み込むあらゆる現象のすべての総体としてあり、であるから当然に自己とは名付け得る現象のひとつに過ぎない。

風という現象に風という名を付けるのは自由だが、風に本来の風なんてものはなくただ移動する空気がそこにある。自己という現象も同一で、自己の感情という現象もすら同一の地平にある。

我々は我々が経験するすべてに後付けで名を付けるだけだ。自己に関しても同一だ。名を付けて分かった気になっているだけで、自己という現象は自己という名を付けるからこそ存在する。自己という名を付け得る現象が存在するというだけであり、それに大した意味はない。

私とは、あくまでも名付け得る現象に過ぎない。

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