KAN

KANこと木村和さんのご逝去の報を、仕事帰りの
帰路に知る。10月に転職して以来、毎日が覚えなきゃ
いけないことだらけ。今日も忙殺されてたので、
日中その報を聞いていたら仕事にならなかったかも。

(KANさんは敬称略で書かせて頂きます)

自分の敬愛するミュージシャンの相次ぐ訃報を
耳にするたびにどんどん感覚が麻痺していく。

KANは「愛は勝つ」「まゆみ」等が代表曲ですが、
自分は日テレ系のスーパーテレビという番組の
エンディングに使われていた「すべての悲しみに
さよならするために」という曲が好きでした。

高校から親元を離れ単身宮城県に引っ越したのですが、
その時の同級生がKANのファンであることを
たまたま知り、いろいろとKANのディープな世界を
教えてくれました。極めつけは当時ファンクラブ内でしか
購入できなかったライブビデオ「あいつとおれ」という
のを貸してくれたのを見た時。KANの曲は知ってるけど
その他は詳しくないという人を奈落の底に突き落としてくれる
ハイセンスでナンセンスな衝撃。これで自分の人生観は
大きく変えられることになりました。

自分がKANのライブを初めて見たのは2000年1月の仙台。
BEEBベースメントシアターという会場でした。開演直前に
ステージ上に置いてあるミラーボールが回りだしたと思いきや、
そのミラーボールの下にアフロヘアーのヅラを着けて、
ミラーボールごと装着しているKAN本人だったという衝撃は
未だに忘れられません。

高校時代の同級生とは社会人になり普段はなかなか会う機会も
減っていきましたが、KANのバンドライブツアーだけは自分が
FCに先行予約期間に合わせて入会してチケットを取って一緒に
観に行くというスタイルを取る事にし、かれこれ20年近く
そんな感じでライブを楽しんでいました。時には
仙台公演のチケットを取り、母校に一緒に遊びに行くなんて
事もしました。言ってみればKANは自分と同級生をずっと繋ぎ、
再会のキッカケを作り続けてくれていたのです。

昨年10月1日のツアー初日、KT Zepp Yokohama公演も一緒に
観に行きましたが、そのライブ直前にツアーメンバーだった
キーボードの矢代恒彦さんがご逝去された事もあり、KANも
公演中にその件をさらっと触れたりしました。あれから1年
ちょっとで同じ誕生日生まれの2人がこの世から居なくなるなんて
想像もつきませんでした。

長い年月、沢山ライブを見に行けた事は本当に財産ですし、
最後のツアーも病気が発覚する前の元気な状態で見る事が
出来たのは良かったと思いますが、もう同級生とKANの
ライブに一緒に行けないんだという事は残念でなりません。

しんみりした状態は本人が一番望まない形だと思いますので、
ダジャレ好きな性格が名曲に昇華された「サンクト・ペテルグルグ」
でも聴いて締めたいと思います。


ほなサイババ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?