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【読書録#1】『読書する人だけがたどり着ける場所』齋藤孝(SB新書,2019)

常に深くなくても構いません。ふだんは浅くても、突如深くなる時間を持とうということです。偉大なものに触れて感動したり心を大きく揺さぶられたりすることで、人生をじっくりと味わえるのです。
『読書する人だけがたどり着ける場所』齋藤孝

読書という行為との距離感

 「昨今の大学生は本を読まない」と、巷では言われているらしい。というか、「最近の人はあんまり本を読まなくなっちゃったよね」というのは、よく聞く話だと思う。ご多分に漏れず、ここ最近の僕はまさに、その内の一人だった。近頃の僕にとって、情報収集といえばネットが中心で、YouTube、Instagram、Twitter、Google...など、スマホやiPadで完結するもの。本に関しては、文字通り全く本を読まない大学生に比べたら、少しは読んでるかもしれないけど、たまーに本屋に行って、面白そうな本を見つけたら買ってはみるものの、時間がないからパーッと読んで、その分パーッと内容を忘れてしまう、(または、積読するだけ)ということを繰り返していた。


 元々、本を読むことや、活字に触れることは苦手ではなかった。というかむしろ得意だし、好きな方だったと思う。小中高とそれなりに本を読み(高校生の時は少し減ってしまったけど)、現代文や古典も、あまり苦手意識なく取り組むことができていた。伊坂幸太郎の書く不思議な小説の世界に浸るのが好きだったし、自分の知らないことを教えてくれる論説文も、少し固いところがあるけれど、嫌いではなかった。
 しかし、大学に入ってからは、本を読む機会がかなり減った。それでも、1.2年生の頃はそこそこ本に触れていた方だと思う。本当に本を読まなくなったのは、3年生になってからだった。おそらく一年間に読んだ本(医学や英語の本を除く)は10冊にも満たないだろう。


 読書量の多寡というのもそうだけれど、「書物を読むこと」=「読書」への距離感が、すごく遠くなってしまったように感じる。その理由の一つは、本を読むことを「時間の無駄」だと捉えるようになってしまっていたから。自分が読もう!と決めて本を読んでも、読み終わって一週間もしたら、殆ど内容を覚えていない。人に内容を説明しようにも、「何となくよかった」ことしか覚えていない。こんな空虚なことがあるか?
 そしてある日、何となく選んだ本を読むのは、ぱたりとやめてしまった。読むとしたら、医学の参考書か、英語の本か、その他役立ちそうな実学の本や自己啓発本だけ。とにかく「自分につながらない本は時間の無駄」という意識が芽生え、本を読むことへのハードルが物凄く上がってしまっていた。

自宅療養という転機、SNSと「向き合う」時間

 自分の中に読書を厭う感情が膨れ上がり、情報収集にSNSをメインで使うようになり、毎日スマホを汗水垂らし必死にスワイプする日々の中で、一週間前。最近流行りの新型コロナウイルスに感染してしまった。結構気をつけていたつもりだったのだが、感染してしまったことには仕方がない。突然の自宅療養を余儀なくされた。高熱でベッドから動けず、スマホでSNSを徘徊する豚と化した僕は、インターネットの波に飲み込まれることになる。


 あるニュースは今ウクライナで起きている、悲惨な出来事を非常にセンセーショナルに報道しする。それに呼応して憎しみの声が湧き上がる。__「ひどい。やり返せ!」
 あるYouTuberは「暴露系」として幅を利かせ、私怨のある芸能人を吊し上げ、それに呼応してコメント欄では様々な意見が飛び交う。__「こんな悪いことしてたんだな。もうコイツの出てる作品は見ません」
 あるInstagramの投稿が、「自分の人生を変えてくれた」といういくつかのTipsを教えてくれる。__「『マジで』人生が変わること、5選...」

 誰かが大衆を惹きつける種をまき、それは不特定多数の目に触れることで瞬時に拡散されていき、やがて大きく膨れ上がる。それが実質を持つ持たないに関わらず、僕は何も考えず、自分の意見を持つ前に、誰かの偏見や悪意の入り混じった、純でないそれらを消費していた。消費する欲求に終わりはないから、次の話題提供を探す。疲れたら、寝る。起きる、またスマホを触る___そしてある時、僕は危機感を感じる。


「このまま受動的に情報を貪って
消費することを続けたら、
芯のない、つまらない人間に
なってしまうのではないか」


 熱が下がり冷静になった僕は、「いわば最近の自分は、実体を持たないネットの有象無象に、人生の主導権を握らせた状態だったのではないか。それが今回顕著になり、そのことについて自覚的になった、ということだろう。」そんなことを考えるようになった。
 僕には、情報の殆どをSNSで集め、ものすごいスピードと深度で知識をアップデートしていくクリエイターの友人がいるが、彼は非常に洞察力と思考力があり、いわゆる「SNSに潜る力」や「情報を大量に処理して記憶し、それをもとにアウトプットする能力」が極めて高い。そのような人ならば、SNSを上手く、主な情報源として活用出来るのだろうが、少なくとも現時点では僕にその能力は不足している(というか、それこそが彼の独創性に秀でている所以であって、自分にフィットさせることが難しいだろうと感じている)。
 SNS依存型の情報収集・思考が、僕の主体的な人生の構築にとって脅威であることに気づいてから、どうすればこの状況を抜け出せるのか真剣に考えた。そこで、ネットを使わない情報収集の媒体として、読書があることに気づいた僕は、「くだらない本を読んでも時間の無駄」という読書への忌避感を払拭すべく、折角時間を使うならば、まず本の選び方の指南書を...と思い、Amazonで「読書法」と検索する___(すごく初心者っぽい)

『読書する人だけがたどり着ける場所』?と、これから。

 すげえタイトルの本がある。何コレ。___著者を見ると、幼い頃SAPIXで散々文章を読まされた、齋藤孝氏の著書であった。何となくレビューも良さそうだし、まぁ古本だから失敗してもいいか。そういうノリで購入を決定、1時間強で読み終わり、現在読書記録として、(最初のnote記事だから気合を入れて)ノリノリで、執筆しているわけである、自己満足。
 著者が読書の効能として挙げていることを、本のタイトルに絡めて一言でまとめるならば、「読書体験が、あなたをより深いところに連れて行ってくれる」である。ここでいう「深い」ところ、とは、SNSで、多くのマーケティングを獲得するような分かりやすいアイコニックな場所とは対極にある、精神文化的な場所である。
 世の中にある全ての創作物や出来事、更には日々の些細な感情の動きでさえ、そこには少なからず文脈が隠れている。今見えている世界を表象しているだけではなく、土台に、そのようなことが起こりうる人間の知的活動の素地が敷かれてきたことに自覚的になり、一見全く違う物事の背景に、同じマインドを発見すること___これこそが読書の真骨頂であると、著書は述べている。


 元々バラバラに認識していた事象を新たな視点から深く捉え直し、自分の中で有機的に再構築すること、また、未知のことに対してもそれを安易に消費するのではなく、その背後にある人間の営みを感じ取ろうとすること。そのための体力を養うのが読書体験であり、また、古くより「名著」とされている古典に、そのエッセンスが詰まっているので、各分野に関して長く支持されている古典は必読であること、かといって新書が悪い訳ではなく、話題の知識をアップデートするためにはその話題に関する本を5冊程度読むのが、非常にプラスであること、本屋でふと出会った本をその日のうちにパーッと読む、という偶然の出会いも素晴らしいということを述べていた。
 共通して重要なことは、先に挙げた読書体験の効能を発揮させるためには、能動的に本を読むこと、具体的には心に響いたセンテンスをメモすることや、感情を動かすために音読してみるなどの工夫をする必要があるということだ。この点については、これから本を読んだ後はこのnoteのように、備忘録として記録に残しておこうと思う。


 この本を読み、だいぶ読書に対する忌避感が小さくなっていたのを感じた。「身にならない本」も確かにあるかもしれないが、それはタイミングや興味が合わなかっただけなのかもしれないし、自分の読み方に依存する所も大きいということに気づいた。それを気にしすぎて全く読書を放棄するよりも、一つでも二つでも新しい視座を得られれば儲け物、という考え方で沢山の本を読んだ方が良いという考えに至ることもできた。
 また、著書は読書に拘泥せず、漫画や映画といった他の媒体にもどんどん手を出せば相乗的に良い効果があると述べていたので、本以外の媒体に関しても手を伸ばし、その時に動いた感情を素直に記録していきたいと思う。
 今、この本に出会ったことは何かの縁だと思うから、この縁を大切に、SNSの表面にいる主体性を失った自分と別れを告げ、読書体験を通じて今よりもより深い場所に潜っていけるように、賢明に日々を生きてゆければと思う。あと、もっと文章うまくなりたい🥺🥺🥺🥺🥺   (2022/4/16)

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