神戸北野のブランド化

ハード面での伝統的建造物保存地区の活性化は難しいと昨日書いてみた。賛否があると思うがリアルに数億を用意しようとしていた僕の交渉過程なのでそれなりのリアリティはあると思う。
僕は、イベント屋であり、活性化、人が集う、経済などのバランスで生きている人間なので悲しく感じている。あきらめはしないが、ハードルが高すぎるとも思っている。

一晩、色々と考えた。そして偶然というか縁がある話が、今週の月曜日に飛び込んできていたのだ。それは、神戸北野のブランド化。
ベイの虎というYOUTUBEを通じ、結構な話が舞い込んできている。直接的では無いかもしれないが、少しのキッカケになっているのも事実。
8億、6億、2.8憶、3000万、800万、300万の買取オファーがある。神戸市内の不動産や事業。もちろん全部買いたいが、そんな金も人も無い。
事業承継やM&Aについて見識が深まってきたし、全て神戸の為になるような話だ。一つづつ取り組んでいこう!

話を元に戻して、【神戸北野のブランド化】
僕は、1997年にインフィオラータを風見鶏の館の広場前で、小さく始めたのが北野とのお付き合いの始まり。風見鶏の館も震災被害で閉館しており、2年後の春には修復し再開できたのを祝うイベントだった。その後、2001年に北野坂で今のカタチとなり北野と縁が深くなっていった。
2001年当時の僕は32歳、会社は5人規模。こんな会社に、こんな大きな事業を任せて良いのだろうかとみんな思ったと思う。大丈夫!やり切ります!というエネルギーで、じゃ一緒にやろうと言ってくれたのが今の神戸市の今西副市長(当時は中央区の課長)であり、浅木さんだったのだ。
そして、僕を面白がってくれる人も多くいた。バブルが弾けた後とは言え、みんなイケイケだった。そして僕は、その先頭に立つほどのイケイケだったんだと思う。神戸市全域でのイベントは、ベイエリアが強くなっていった。誰にも負けないエネルギーがあったのだ。
神戸北野に限れば、お洒落な先輩にお世話になった。
菊池さん、山岸さん、若山さんを筆頭に野津さん、岩高さんと続く。先輩たちは北野文化やブランドを発信しようとしていた。
僕は北野に住んでもいないし会社も三宮だが、北野に住めよとか誘われていたのを思い出す。

菊池さん>異人館倶楽部3棟
山岸さん>セエムアッシュ(パンと珈琲は震災でも北野の街からは消えない)
若山さん>リランのお父さん
野津さん>神戸山の手スタイル
岩高さん>マトッティ

さて、一気に全国的な人気の観光地となった北野地区は、歴史の流れと相続問題だと思うが、時代の流れによって経済的には衰退していくことになる。

ところが、神戸北野ブランドをやらないかという話が僕のところに舞い込んできている。伝統的建造物保存地区として、街の賑わいよりも景観を優先するのであれば、それよりも優先して、神戸北野ブランドへの取り組みを行いたい。
既に先輩たちのつくった土壌がある。
一緒にやる人も近々募集してみようと思っている。


















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