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レディ魚ー!

おはようございます!
休学中今年の1月くらいから魚屋の準備を始めて爆速の三ヵ月が経ったいま、一度立ち止まってこれまでを振り返ってまとめます!

素敵なご縁に恵まれる

休学期間、
振り返るとたくさんの人に僕の夢を応援してもらった。
モヤモヤフワフワした具体化できない夢でも、僕のために色んなものを見せて聞かせて、応援してくださった。真っ向から向き合って注意してくださる方もいた。「~~をしている北浦優翔」ではなく「北浦優翔」自身を応援してくれる人もいた。
僕は本当に幸せな人間です。

必ずもっと大きくなって成長して、全ての人に恩返しをします。

魚屋始める

今年の2月頃
「お世話になった水産業界の人にいつか恩返ししたいじゃなくて今すぐ少しでもいいから恩返ししたい」と思った。その手段で思いついたのは魚屋だった。福岡のSUNWOOD株式会社の井手社長の支援を頂いて、着実に少しずつ準備が始まり、覚悟が決まっていった。

おじいちゃんおばあちゃんに移動販売して届けたい

休学期間に出会った年配の方々は、僕の夢を応援することを生きがいかのように感じてくれる人が多かった。
強みが特にない僕でも、魚を売りにくる明るい夢を語り続ける若者として年配の方々に元気になってもらうことで、求められるのではないかと思った。

年配の方々は、魚を買いたくても買えないという人が多かった。移動販売でその人たちに届ければいいのでは??と考えた末、年配の方々に移動販売で魚を届ける魚屋に行きついた。

その後も
産地直送専門店、貝類専門店、焼き物キッチンカー、白いもの専門店、出張寿司屋と魚屋の二刀流、などなどコロコロ

お世話になった人から商品を直接購入して、ほんの少しでも出来る限りの貢献をしたいと思って産地直送魚屋。
何か1つに特化しないと生き残れない、福岡の会社に魚介類を卸すしたい。貝類なら求められそう、と思って貝類専門魚屋。
ただ漁師さんや市場から貝類仕入れて卸すだけじゃ、お金を稼ぐのは難しいと思って焼き物キッチンカー。
キッチンカーが想像より高くて、やっぱり移動販売をしたい。そのときに父から何かに特化した方がいいから「白いもの専門魚屋」にしなよとの提案。貝類は白いものが多いし、白身魚も売れる。年配の方々はトイレットペーパーやお米も届けてたら喜んでもらえるはず。と思った。
でも尊敬する方から、それじゃ結局何でも屋さんになっちゃうよと言われて、本当にやりたいことではないように思えてきてじっくりと生産者の方々の魅力を伝える時間を作れそうな寿司屋(ケータリングサービス)もやりたいと思うようになる。

寿司屋



2月~4月くらいまで、
こんな調子でやりたいことは次から次に出てくるし、そのたびにコロコロ言ってることが変わっていた。この時期にお会いした方々からすると僕はかなり扱いずらい、変な奴でした。本当にご迷惑をおかけしました。

でもそうやって、やりたいことを口に出して行動して、違うと思ったら方向転換する。それを何度も繰り返したおかげで、今少しづつ熱狂できるものが見つかってきている気がする。応援してもらってもそれに応えられないことが苦しくてしんどい時期だったけど今となっては必要な時期だったと思う。

軽トラック買っちゃった。

3月30日
そんなこんなをしている内に、魚屋オープンの予定日5月25日まで60日程度しかなくなり、焦った僕はおかしくなってとりあえず軽トラックを買うことに、、、
購入後に、その軽トラックではキッチンカーとしての販売は難しいし、その他移動販売の許可も色々必要だと知る、、、


名付けてレディ号

授業が楽しい

4月、
大学の授業が始まった。現場で見てきたものと授業での学びが繋がる感覚が楽しくて、前のめりになって授業を受けることができた。

そもそも僕が去年度休学した理由は、水産現場にある課題やそこで働く人々の考えに触れて学ぶ目的を明確にし、1日の大半を占める大学の授業を有意義に過ごしたかったから。


最前列で一緒に授業を受ける仲間

休学するという決断をして良かった。

大赤字大学祭

5月
北海道大学に出店することになった。
そもそもは僕の魚屋の名前で出店しようと考えていたが、貝類の販売が全面禁止されていたことや人数を集められるか不安だったこと、大学祭には当初ターゲットとしていた年配の方々があまり来ないことなどを理由に、行動に移せないでいた。
そうしているうちに、出店申し込みの締め切り日を過ぎてしまった。

締め切り日から3日くらい過ぎたころ、僕の大好きなアフロが突然「ゆうと、大学祭で焼き魚売ろうぜ」と言った。
そんなこと言われたらやるしかなかった。

締め切り日かなりすぎていたのになんやかんやで出店させてもらえることになった。

店名は「水産開拓使」
テーマは「学生に魚食文化を広める。」

刺激をくれる仲間もたくさんできた

大学祭の期間は部活みたいな、ハードで充実した日々を過ごした。
売り上げはまったく出せず、協力してくれた仲間にはお給料も払えないという悔しい経験をした。それが今も大きな原動力の1つになっている。そしてその時、悔しい思いをしたメンバーが今も一緒に活動してくれている。出店停止になったり、お借りしていた大漁旗汚してしまったり、大赤字になったりと色んな事があったが全てひっくるめて本当に貴重な経験ができた。

大学祭最終日、風呂場の椅子で寝落ち

始まる移動式鮮魚店「レディ魚ー」

6月
大学祭の準備期間はメンバーみんなで集まって話す機会があまりに少なかった。その反省を活かしてとにかくメンバーの話す時間をたくさん作った。
最初は、「レディ号」(購入していた軽トラックにつけた名前もレディ号)という名前で活動していたが6月25日から「レディ魚ー」という名前に変更した。でもまだまだチームの方針は固まっておらず、フワフワしていた。

イベント出店

開業するとありがたいことに誕生日パーティーやお祭りなどへの出店のお誘いがたくさん舞い込んできた。移動販売の事業になかなか手を付けられず、イベント出店の準備に追われる毎日が始まる。
でも出店の回数を重ねるごとに、やりたいことが明確になっていった。

友達の誕生日パーティー

現場に行くこと

㋇中旬にレディ魚ーメンバーと共に広尾町の昆布漁師保志さんのもとを訪れて、約1週間水産の現場を体験した。その1週間、日ごとにメンバーの目の色が変わり、水産業界の課題に目を向けるようになっていく様を見ていて、この変化をたくさん起こすことが僕が出来る水産業界への貢献の仕方ではないかと思った。北海道大学にいるスゴイ(頭が良い、お魚好き、海が好き)でもどう貢献したらいいか分からなくて動き出せない人たちを現場に連れていくことで課題の解決に向かう何かを生み出すのではないかと思った。

(3年生から函館にキャンパスが移るからと言って、コミュニティに属さず魚釣りや水族館巡りなど1人の世界に閉じこもってしまう水産学部生も巻き込みたい!もったいない!)

広尾
函館

教室と現場を繋ぐ魚屋

そして今になって
現場に仲間を連れていくことが、水産業界の課題に目を向ける学生を増やし、水産業界の未来に繋がるということが確証に変わった。
「教室と現場を繋ぐ魚屋」を目標と設定した。

魚屋という水産流通の末端に属する組織にいることで、水産現場に興味をもつきっかけを生み出して大学の教室での学びをより深いものにする。
教室で学んだ知識や現場で得た経験を魚屋での活動に活かす。

魚屋という活動を土台とすることで、このような仕組みを確立できる。

脳内イメージ

漁村訪問×移動販売

今後
組織を継続させていくため、水産現場に興味をもつきっかけを生み出すため、現場に行くためのお金を稼ぐため、全力で売り上げを出さないといけない。そのために僕たちが出来る魚への価値の付け方は、生産者(販売商品に関わった全ての人)の人柄や思いをセットで販売することだと思う。

漁村に行き商品の製造に関わった方々と話をしたりお手伝いをさせて頂き、その漁村付近で僕たちレディ魚ーがその商品を販売する。

漁村訪問×移動販売の強みは
・人柄や思いをセットで販売しやすい。
・鮮度のいいもの、美味しいものを販売できる。
・商品の輸送費がかからない。
・みんなで合宿みたいに準備できるからはかどる!

こんなイメージ

ユウトの夢

僕の夢、
たくさんあるけど、今ワクワクしているのは

「学生だけで水産一気通貫事業をする。」

魚を獲って、加工して、販売するまですべてを学生だけで行う。

「この魚、今日の朝僕の先輩が函館で獲った魚なんですよ」とか「僕の友達が燻製したにしんです。美味しいですよ!」とか、そんな会話が生まれる魚屋をつくってみたい。ロマンね


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