職業

僕の父は僕が生まれる以前にシェフの見習いやバーテンダーをやっていたようである。

古びた写真アルバムを顧みると、そんなことがわかるコック帽?姿、シェイカーを振るリーゼント姿、小さい飲食店の前でマドロスよろしく路傍の花壇に足をかける姿などがモノクロで写っている。その頃に僕は生まれたんだろう。恐らく。

物心ついた時に父は、隣県の市のボウリング場に勤めていた。メーカー公認のインストラクターユニフォームでプロに教える父の姿も写真で垣間見れる。投球するフォームはとても美しいもので、現在ボウリングチームに紛れ込んでたまに練習会や大会などに参加する僕でさえ「こんなきれいなフォームの人は見たことがない」と思うほどに完成されている。

僕が生まれた昭和40年、日本はイケイケドンドン(-_-;)の高度成長を突っ走っていた。ボウリング場は大盛況で、待ち時間に利用する卓球でさえ待ちが出ていたほどだ。

その頃、僕はボウリング場の宿直室で7時きっかりに寝かされていた。学校からボウリング場に「帰宅」し、ボウリング場の休憩スペースの机で宿題をして、場内で遊んで、寝て…。深夜に起こされ、父の自転車に二人乗りで長屋の一室に帰った。だから朝だけはきちんと家から学校に通った。因みに、風疹で帰らされた以外は皆勤賞で。

僕は母がいないのもあって、いまの子供が保育園にいく年頃は隣県から移住した時はじめて住んだ借家でひとり留守番をしていた。時には他人様の宅に預けられたようだが、僕がひどくごねたらしい。というか、その頃のことは結構記憶にあり、預けられた宅のおばさんは父の前ではにこやかだが、誰も見ていないときにはひどく僕をいじめた。小学校高学年の時も当時住んでいた長屋の大家宅に預けられたが、やはり差別的なことはあった。そこには息子が二人いて、年齢的に僕は真ん中だったので「中(ちゅう)兄ちゃん」と呼ばれた。しかし僕には厳しく、泣いたりすることもしばしばだったが、この家庭では良い「躾」を受けたと思う。箸の持ち方や食事どきのマナーとかはこの経験ナシで今はなかったと思う。僕は大抵なんでもひとりで決め、ひとりで行動してきた人生だったので、幼い子の「待機児童」問題やら、最近の「群れる若者」などが全く別世界のことのように思われる。

ちょっと脱線したけれども、ボウリング場も景気の波が落ち着くにつれ経営が厳しくなってきた。当時はそんなこと全くわからなかったが…

父は仕事を喫茶店の開業請負人みたいな職業にかえた。今風に言えば、フリーの開業コンサルタントだ。ちゃんちゃらおかしい。何がフリーのコンサルタントだか。僕はなんでも格好良く言うのは好きでない。ライターだけで辛うじて食っていた時期も他人には「俺、プーだよ」と言っていたので、周りの人間にとても心配されていた。僕にとって、フリーと胸を張って言えるのは、かみさんも子供も自分の報酬で養えてはじめて解禁されるワードだと考えていたから故。厳密に言えば、手作りの名刺に❝ライター❞などといれていたことすら目茶苦茶厚かましい行為に思われる。

またちょっと逸れたけれど、喫茶店開業請負というのは、文字通り喫茶店をやりたい人の意向に沿って開業に関わる全てを世話し、ノウハウを伝えることである。で、お店が軌道にのるまでの2~3ヶ月従業員として経営を手伝うのだ。

やがて父はあるオーナーの希望でとある店の責任者(チーフと呼ばれていた)として正式に雇われることとなった。

この頃から我が家は長屋から新築のマンション(という名のコーポ)に引っ越し、売り出されたばかりのビデオデッキ(父のエロビ用)を購入したり、僕はずっと欲しかったソニーのコンポを買ってもらったり…比較的裕福になった。なんせ父と自分の二人暮しだから、小遣いも同級生よりはかなり多額をもらっていた。

その後、父は小さいながら自分の店をもった。

いまこの年齢になってしみじみ考える。多少ブレてはいるが、父は最終的に目標をクリアした。しかも男ひとりで僕を成人させてもいる。

「父の偉大さに気づいた。」

いままで散々悪口を言ってきたし、実際最悪な親だと思っていた。平気で嘘をつくし、助平だし、色々とだらしないし…。ただ、自分には全く出来なかったことを最終的に成し得た。

僕は進学で上京し、ちょっとした縁で大手出版社・大手放送局とかでバイト出来るというラッキー?なことになった。4年生時には大手広告会社で働きながら就活をし、目指していた(当時でいう)都市銀行を受けることもなく、結局なし崩し的にそのまま広告業界に身を投じた。ブレたわけだ。

2年後出版社に転職。営業から広告部~総務人事~流通管理~生産管理~宣伝販促…と転がりまくり、9年半で退職した。その後、転職を繰り返し、フリーっぽい身分になったり、また勤め人になったりとブレまくり。まるで一貫性が無い人間になった。おかげで、派遣仕事にまで手を出し、転職だけで35社以上(正社員・契約社員・バイト若干を合わせて)なのに、さらに数十社に出入りすることとなった。

昨年から国の仕事をしていたりする。最初は霞が関の居心地が色んな意味でよく、入り浸りそうになったので途中でまた(民間)企業に通ってみたりしたが、窮屈極まりなくてやっぱり外郭機関に戻ってしまった。

中学時代の友人が地元の市会議員になった。そんな年齢なのだ。だから、田舎へ帰って町興し活動でもやろうという今まで想像だにしなかったことを現実的に考えるようになった。父の近くで自分を育てた街のために尽くす。それもアリかな。と。ただ、かみさんが「西」のカルチャーに溶け込めるか…。あまつさえ、マスコミ業界一辺倒だった仕事を流通大手に舵を切りなおしたばかりなのだ。無理かな。。。

父にもかみさんにも、そして自分が育った街にも恩返しをせねばならない。だけれど、いまだ課題は山積みのようだ。まだまだ「職業」的にブレまくるのかと考えると、自分がかなり情けなく思えた。

自分のゴールはまだそこへの道のりすらぼやけている。

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