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吉田靖直『持ってこなかった男』

2022年9月の読書
吉田靖直『持ってこなかった男』(2021年)
トリプルファイヤーというバンドのボーカルの人の、自叙伝です。
曲もよいです。


 吉田靖直という人を初めて知ったのは、ネットの、あるトーク番組で、西村賢太について話していたので「お」と思った。その後、世間の「あるある」を自由律詩に詠んで競う『共感百景』というTV番組に出ているのもみて、彼が一番面白いと思った。

 詩に「一匹狼」というワードも使っているし、インスタグラムを覗いてみると、さもありなんというのか、「途中何度も声を出して笑った」とのコメント付きで西村の遺作『雨滴は続く』をあげていたが、私は、この人の自叙伝『持ってこなかった男』も、何度となく声を出して笑ってしまった。

 まず一人称が「私」なのが、もう、可笑しい。西村賢太の初期作みたいだ。自意識過剰なさま、痛々しさ。高1のときのバレンタインデーのくだりなど、ふとこり具合がまんま貫多だ。西村は訳あって高校へは進学しなかったのだが。
(※「ふとこる」は西村賢太の作に頻出する動詞。懐(ふところ=胸の内)で思惑や企みをああでもない、こうでもないと、こねくり回す、と同意か)

 吉田は大学へ進み、パチンコにはまる。カードで買った商品券を金券ショップで現金化するというループにまで陥り、何か月も家賃を滞納した挙句、虎の子のギターを売り払わなければならないという段になって漸く日雇いバイトに出向き、しかしそこで稼いだ金をもまたパチンコで溶かす。

 「俺は頭がおかしいのか。何度同じ失敗を繰り返せば気がすむんだ」

 突如「俺」になった一人称は、読者を置きざりにして、自らを激しく罵倒する。これが西村作品なら「自分を蹴り殺してやりたい」というフレーズになろう。

 しかし、段落も変えず続けざまに

「でも私だって信頼度の高い(パチンコ屋の)イベントを探す努力はした」「たまたま運が向いてなかっただけの私を誰が責められるだろう」

と書いてのける吉田。いや、声出して笑うって。

西村の場合はここで ”自分に暴力を振るわせた” ”一方的に被害者ヅラをする相手” への呪詛がネチネチと書かれるので、ちょっと、笑うに笑えない。だがそれゆえか、せめて笑ってほしい、頼む、笑ってくれ、という悲痛さが増す。

 見た目は全く異なる二人だが、人それぞれ抗えない「業」があることを、各々自らへ向けた絶望と怒りを言語化して見せている。

 西村の「業」とは制御不能な「憤怒」とそれによるところの「暴力」であり、それが生育環境や、言うなれば「血」とも切り離せなさそうな背景も見せているから、一層エグく深く、苦しい気がするのだろう。

 しかし吉田のほうも、笑うに笑えない、よくこんなこと書いたな、自分ならとても書けない、と思わせるようなことを書いている。制御不能な「憤怒」より一層恐ろしいかもしれないと思った。

 外見といえば、映画『アンダードッグ』をみていて、森山未來が吉田に見えなくもないことに気付いた。「ジェーン・スーと吉田羊」的な感じで、似ている。当初吉田(羊ではなく靖直のほう)が確かに誰かに似ている、と思っていたその誰かが、ある大御所歌手だったと思い至って落ち着いていたのだが、なんと森山未來もそうだったか。

 「あとがき」で吉田は「何かの拍子にこの本がドラマ化とか映画化とかして、主演女優と懇意になるようなことがあってくれても全然いい」と書いているが、その主演を森山未來がしてくれてもいい、と思った。

 後日、西村賢太の日記『一私小説書きの日乗 野性の章』(2014)を読んでいたら、なんと書籍『共感百景』についての記述があって驚いた。TV番組化される以前に西村賢太は2012年の草月ホールでの回に出場しており、その時の共感詩が収載されているらしい。

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