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言いなり

部屋の模様替えなんてしゃらくさいことをやるはめになったのは、当然のことながら、妻のせいだった。

ここのところ、週末が来るたびに、『断捨離』とかいう怪しげな言葉を呪文のように口にしてクローゼットの中の物をごみ袋に放り込んでいたものだからこれはやばいと思っていたら、いよいよ家具の配置にまで興味を持ち始めた。

私は片付けが苦手で掃除が嫌いだけど、私に責任はない。こんなのもう遺伝と言うほかない。実家にある父親の部屋は家中のごみをぶちまけたような有様なのだから。帰省したときにこっそりその部屋を妻に見せたところ、夫の無茶な主張にもいくらか納得したようで、妻はそれ以来、夫に部屋の掃除を要求しなくなった。

ただし、私の性格を熟知している彼女は、夫の操作方法を完璧に心得ていて、別の作戦をとるようになった。「言ってダメならいっそ言わない」という、母親が中学生の子にでも使いそうな手ではあったが、どうも精神の成長が中学校で止まっていたらしい私には効果覿面だった。

妻は無言で夫の罪悪感を煽るのだ。

無言で、というか、ほぼ夫を無視して部屋の片付けを続ける妻。そういう態度の妻に対抗し、あえてリビングのソファーに寝転がって本を読んだり、テレビを見たり、ゲームをしたりしていた私は、そうやって無言の圧力には屈するまいと最初のうちはがんばったけれど、やがて、

「コーヒー飲む?」とか、

「午後どっか行く?」とか、

妻に声をかけてしまって、だけれども妻の返事はそっけなく、

「いまはいいや」とか、

「あとで考える」とかだったりするから、最終的には屈服してしまうのだ。

ここで例えば、部屋を移動するとか、いっそ家を出るとかいう抵抗ができるほどこの私は心が強靭ではない。なんてったって精神年齢は中学生なのだから。虚栄心は人一倍。すべての物事に基本びくびくしている夫は、妻のご機嫌取りもかねて、そしてせめて模様替えなんて面倒くさいイベントを阻止するために、部屋の掃除をしようと決心するのでした。

ソファーから重い腰を上げたときの立ちくらみは、血圧が下がったからだろうか、掃除が嫌すぎたからだろうか。

とはいえ、妻のやることはだいたい正しい。認めるのは癪だけども事実なのだ。そして大抵の場合、夫は、妻の作戦にはまりにはまってしまうのだ。


「時代は変わる、すごいスピードで——」

ちょっと前に観たアメリカの田舎町を紹介するテレビ番組の冒頭にそんなナレーションがあった。時代なんて大きい規模のものがすごいスピードで移り変わるんなら、一日なんてそれこそ光の速さで過ぎていく。その瞬間瞬間に起こる変化になんて気づくこともできない。

リビングを片付けてたはずがいつの間にか大掃除になり、リビングの模様替えになり、そこに自然と寝室の模様替えが加わり、最後には、どういうわけか、新しいCDプレーヤーを注文していた。

CDプレーヤーは翌日届いた。配達のスピードもものすごい。


物を捨てた。着なくなった服、読まない本、使わない食器、勝手に増殖したとしか思えない黒いペンを中心とした文房具類など。でも、思い出に紐付いた雑多な品々は保留のまま。

ベッドの置き場所を変えた。リビングにあった本棚を寝室に持っていった。ベッドで隠れていたモジュラージャックが使えるようになったからモデムとルーターも寝室に置いた。「プリンターなんてほとんど使わないよね」という妻の言葉でプリンターも寝室に押し込めた。

リビングダイニングルームでは、ソファーとテレビの位置を入れ替えた。ダイニングテーブルの向きを変えた。キッチンボードの上のフードストッカー(空き箱にお菓子とかお茶とかを適当に詰め込んだ物)を台所の上の棚に突っ込んだ。キッチンカウンターに置いていたオーブンレンジをキッチンボードにトースターやコーヒーメーカーと並べて置いた。

夕方落ち着いたころ、二人でダイニングテーブルにつき、部屋を見渡した。見慣れない景色に若干の戸惑いを感じた。部屋の広さに驚いた。物を動かすついでに普段やらない拭き掃除をしたから床も輝いていた。

「気持ちいいね」

と私が言うと、妻は得意気に微笑んで

「ね」

とだけ言うのだ。

妻の言うことは正しい。認めるのは癪だけれども。

配置換えしたコーヒーメーカーの使い勝手を確かめるためにコーヒーを淹れる。妻は部屋をうっとりと眺めていた。見慣れない部屋に彼女はすでに馴染んだようだ。沸騰するお湯のごぼごぼいう音が響く。

音楽が足りていない。きれいな部屋には音楽が必要だった。せっかくたくさん物を捨てたけれど、元々ないものは増やすしかない。キッチンカウンターの上はおあつらえ向きにすっきりしていた。

翌日配達されてきたCDプレーヤーは部屋によく馴染み、きれいな音で音楽を奏で、二人を満足させた。

かけるのはちょっと昔の曲ばかりで、新しいプレーヤーで聞くと当時聞こえなかった音に気がついた。


毎朝コーヒーを淹れる。音楽をかける。

きれいな部屋。懐かしい音楽。コーヒー。

私が淹れたコーヒーを妻は美味しいと言って飲む。

結局、彼女はすべてにおいて正しい。



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