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江戸時代のオランダ語勉強: 蘭語通詞の生活、日々の勉強

江戸時代に長崎には出島があり、そこではオランダ人達が住んでいた。通訳を担当していたのは長崎通詞だった。長崎通詞は江戸通詞から舌人と呼ばれるぐらい蘭語会話に精通していた。今のような便利な外国語教材も無かった時代に彼らはどうオランダ語を学んだのか片桐一男の「阿蘭陀通詞」から学んでみる。



オランダ通詞の日々の業務

基本的には、
1) 長崎奉行・長崎奉行所に対する仕事
2) 長崎会所ならびに長崎町年寄等役人に対する仕事
3) 出島のオランダ商館に対する仕事
4) 阿蘭陀通詞団自体に対する仕事
5) 私的な仕事

オランダ通詞の役職

例を挙げると、本木仁太夫良永は以下のような役割を担った。
・14歳 口稽古
・15歳 稽古通詞
・32歳 小通詞末席
・43歳 小通詞並
・48歳 小通詞助役
・53歳 小通詞

目附  dwars kijker
大通詞  oppertolk
小通詞  ibdertolk
 子通詞助役  
 小通詞並  vies ibdertolk
 小通詞末席  provisseneer ondertolk
稽古通詞  leerling
 稽古通詞見習  leerling secunde
口稽古

正規の通詞はここまで。
これ以外に、内通詞 particulier tolkと言う人たちもいた。
彼らはオランダ人に付き添って個人的な売買業務を手伝ってチップを得ていた。


日々の業務

主に大通詞、小通詞が交代で職務を行い、稽古通詞は彼らに付き添う。
内通詞は、オランダ船が来た時から、出島へ詰めて、大通詞、小通詞の指示を受けてオランダ人の買い物やその他の用事に付き添う。


- オランダ船の来航・入律
・入港手続き
・オランダ風説書(海外情報)の翻訳
・人別改め(乗船人名簿の翻訳と点呼)
・積荷目録の翻訳

- 貿易期間中
・毎日、出島に出勤
・貿易交渉に立ち会う。一切の請け払い勘定事務をこなす

- 阿蘭陀・カピタンの江戸参府
・交替で2人ずつ江戸行きを務める(大通詞、小通詞1名ずつ)

- 阿蘭陀人が出島から外へ出る場合
・随行、案内に立つ
 祭りを見に行ったり、薬草の採取などに行くことがあった

- 在留オランダ人の諸用事
・用事があれば出島へ出向く

- 語学修行
口稽古や稽古通詞が行う






大まかな蘭語学習の内容

後述のように文献を読む江戸通詞と違い長崎の通詞はオランダ人に接して業務を行っていた。当然、読むだけでなく、会話やオランダ語での作文にも通じている必要がある。

当時の通詞の日記にも今日は何を練習したとか、どの本を読んだなどの記録は残されてない(当時の日記は一家の記録のようなものだったので、イベントのような特別なこと以外はいちいち書かなかったのだろう)

江戸通詞の内長崎に留学した者の日記から以下のことを行っていたことが分かる。

1) 「アベブック AB Boek」、「レッテルコンスト Letterkonst」でアルファベットを学ぶ

2) 単語は「エンケルウォールド Enkel Woord」で学ぶ

3) 「サーメンスプラーカ Samen Spraak」で日常会話を学ぶ

4) 「オップステルレン Opstellen」で文法、蘭作文を学ぶ


「アベブック AB Boek」、「レッテルコンスト Letterkonst」

英語ではそれぞれ、AB Book, Letteringとなる。
その名の通り、アベブックはアルファベットを学ぶ教科書だった。修行段階の稽古通詞や子通詞が使用していた。

アベブックは本国オランダの子供も学習していた内容であり、内容は、まずアルファベットの例が書かれていた。アルファベットの例には大文字、小文字、ローマン、イタリック、筆記体が記されていた。

Ab eb ib…

また、それぞれのアルファベットには単語の例も書いてあった

A - Akkerman
B - Burger
C - Cyfferen
D - Dyk
E - Eendragt
F - Fruit
G - God
H - Haring
I - Indian
J - Jeugd
K - Koe
L - Linnen
M - Moeder
N - Nederland
O - Olie
P - Papier
Q - Quakzalver
R - Ruiter
S - Schip
T - Turf
U - Uur
V - Vader
W - Wol
X - Xantipp
Y - Yzer
Z - Zout



この他にも、子供の教育のための宗教的訓話もあった。

アルファベットだけでなくオランダの文化や歴史についても学べる書物だったようだ。


「エンケルウォールド Enkel Woord」

英語ではSingle Wordという。こちらは天文、地理などの単語を集めた教科書になっている。
日本人がオランダ語の単語をまとめた単語帳は様々なものが作られた。


「サーメンスプラーカ Samen Spraak」

英語ではconversation。会話の事だ。

内容は、複数の会話の例をまとめたもの。
長崎通詞もオランダ語会話学習のテキストとして使用したようだ。
江戸通詞の間でも蘭語撰の名前で写本が使用された。

Eerste Samenspraak(第一会話 66例)
Twede Samenspraak(第二会話 66例)
Derde Samenspraak(第三会話 66例)
Vierde Samenspraak(第四会話 66例)

会話の例 

ik wensch u gouden dag, mign heer

ik ben u dienaar

Ouden sal men eeren, jongen sal men leeren

これをGoogle翻訳にかけてみた。一番近い外国語として英語に翻訳してみた。正しく翻訳された。
ただし現代のオランダ語と違うようで以下のように直された。
(長い間でオランダ語も変わったようで、日米和親条約の時などもオランダ語が使用されたが、江戸通詞の書いたオランダ語は本国オランダ語でも使用されないような古いものだったようだ)





他の会話も英訳してみた

Wit Raven vind men zelden, alzoo zelden men trouwen

Hij is een gehoorzaam kind

Hij is een oprecht knegt

men kan een man met zijin ommegang

Veel vraagen en wel onthouden

't haastig spoed is zelden goed

Hij brengt gansche nagten met Leesen door

ik heb al mign kragt in 't werk gestelt, om 'er een eijnde wat maaken

't zon jemmerlijkweesen, zo een schoone gelegentheijt te verzuymen



翻訳結果

One rarely finds White Raven, so rarely one gets married

He is an obedient child

He is a sincere lad

one can associate with a man

Lots of questions and remember

haste is rarely good

He spends entire nights with Leesen

I have put all my efforts into making something happen

It would be a pity to miss such a wonderful opportunity








「オップステルレン Opstellen」

Opstellenとは英語では、公式、定式化のこと。つまり文法のこと。
日常会話を会得した後は、業務のためにオランダ語の作文の練習が必要になる。作文のためには当然オランダ語の文章の構造を理解し正確に意味を理解しないといけない。通詞も長い年月をかけてオランダ語の文章の規則に気づき体系化していったと考えられる。

様々な西洋の自然科学の翻訳、地動説の翻訳も行った本木良永も長崎通詞として教育を受けた1人だ。彼の書いた「和解例言」の中には、アルファベットの知識に加えて、オランダ語の発声方法も記されている。


・内容は、アルファベット26文字、数字、発音の表記(母音、子音、音節)を
 まとめている
・出来る限り、カタカナで、濁音、半濁音、促音、長音を表している
 しかし、彼自身も認めているがカタカナで発生を表すのは難しいそうだ
・「あいうえお」の「う」はオランダ人は「ゆ」と発音するので
 (アルファベットのUのことか)文中でも「あえいおゆ」と書かれていた
・CQX, CK, IJ, IY, FH, LR, SZ など日本人がなじみのないスペリングの
 発音も掲載されている。例えば「Rの音は舌をのどまで裏返すこと、
 Lの発音は舌を上の前歯の裏にくっつけること」が書いてある。

多くの通詞にとって大きな影響を及ぼした本だ。しかし、この段階ではまだオランダ語の文法の説明までは至ってない。


志筑忠雄(中野柳圃)はWillem Sewelの文法書の原語を読んだ。
ここで品詞や動詞の理解を深めた。



長崎通詞の日々の勉強について

江戸時代では書物は声に出すことを「読む」と言っていた。今のようにただ目を通すだけでは「見る」と呼んでいた。

儒教の学習法は子供の時は素読(文章を先生の真似をして声に出して読むこと)、大人になると講釈と会読(文献を読み、それについて他の生徒相手に講義を行う。質疑応答もあるため深い理解が必要になる)を行うことで儒教の教えを熟知することが広く行われていた。

紙は今より貴重品だったため無駄遣いはできない、そこで声に出して読む、自分なりに解釈し他人に教える、という勉強法が広まったと思われる。ただ書物を紙に書いただけ、読んだだけでは頭に入らない。

オランダ通詞も声に出してオランダ語の文章を話すことは今の学校の授業よりも徹底していただろう。







今村源右衛門の場合

階級があった江戸時代、通詞の中でも格が落ちる内通詞から語学力で成り上った男がいる。彼はオランダ船で日本にやってきたドイツ人ケンペルの秘書のようになりオランダ語を磨いた。

参考: 「阿蘭陀通詞 今村源右衛門英生 外つ国の言葉をわがものとして」


ケンペルとは?

ドイツ人エンゲルベルト・ケンペルはオランダ東インド会社の日本商館付医師として1690年9月25日に長崎にやってきた。1962年10月31日に長崎を去るまで2年間日本を滞在した。

ケンペルは日本を研究しヨーロッパでも本を出版した。この研究のための豊富な資料、日本文化理解のためには日本人の協力者が不可欠だった。
メモ: ドイツやオランダは山が少ない。対照的に日本は国土の3分の1は山である。つまりヨーロッパに存在しない植物、そこから作られる薬は彼らにとっては良い研究対象となった。

ケンペルと今村源右衛門の出会い

ケンペルは当初、日本人に酒を振る舞ったり、天文学や数学、薬物学を教えて日本人取り入った。日本人も珍しい外国の事を興味深く話を聞いた。ケンペルは自画自賛するほど日本人と交流が上手くいった。そのうち彼らから日本の情報を教えてもらえるようになった(中には極秘情報もあった。ケンペルも「日本人はヨーロッパ人のように神が見ている、神が定める倫理に従うという考えがない、2人きりになれば極秘情報を教えてくれることがある」と日本人の精神を分析していた)

しかし、彼らの情報は断片的で体系だったものではない。正確な日本国理解には不十分だった。そこで内通詞の当時満18歳の今村源右衛門に目を付けた。この若く知識欲に燃えた若者を部下にし、ケンペルは源右衛門にオランダ語を教授し、源右衛門を情報・資料の収集、日本研究の助手として活用した。

今村源右衛門は元々どういう仕事をしていたのか?

内通詞の仕事内容は、「オランダ会話および通訳が出来る者が日蘭貿易中二、オランダ人に付き添って商品の売買の手助けを行い、手数料をもうらことで生計を立てる」

このように、内通詞は元々オランダ語会話を重視していたことが分かる。オランダ人と良い関係を気づく、通訳能力は彼らの生活を左右するからだ。語学は必要に迫られるからこそ伸びる。現に源右衛門も幼いころから出島に出入りしてオランダ人の小間使いとして働いていた。




源右衛門のスパイ活動

当時日本は鎖国(と言わぬまでも貿易国を制限)していた。外国を警戒しているので外国から帰ってきた日本人も再入国も厳重に行われていた。日本地図、日本の情報は持ち出し厳禁だった。

シーボルトもケンペル同様に日本人の協力者がいて様々な日本の文献を集めて持ち帰ろうとした。しかし、嵐で船が座礁しそのことが幕府にバレた。協力者も厳重に処罰された。幸いケンペルは活動が明るみに出なかったが、一歩間違えれば源右衛門も同様に処罰されたに違いない。

このような国情で源右衛門はケンペルのために様々な資料を集めたのだ。源右衛門は命の危険を冒して情報を集めたスパイのようなものだ。


ケンペルも源右衛門を高く評価していたことが分かる。

この青年は、24歳前後の知識欲に燃えた学生であり、日本やシナの分籍に通詞、私が出島入りをした直後、私から薬物学を学ぶために従僕として与えられたのである。私は、我々の居住する出島の管理者である乙名が病気の際にも、彼を助手として使ったが、乙名はこの青年の手厚い看護を受けたのであった。
そのとうなことから大人は私の2年間の滞在中、特別の扱いをもってこの青年を常時私の手許に置き、2回に渡す参府の際にも、私に随行して江戸へ旅行することを許したのであった。
私は往復合わせて4回にわたりこの青年と共に日本を縦断する旅行をする機会を持ったわけだが、このような物わかりの良い事情通がこのように長期間オランダ人の元に置かれたことは異例中の異例である。

源右衛門は武士なので日本や中国の漢文の勉強をしていただろう。その知識が役に立ったはずだ。
ケンペルは源右衛門にまずオランダ語を教えた。

最終的に源右衛門の語学力は、ケンペルが記すところによると

私は、この抜け目のない青年に直ちにオランダ語を文法的に教え込んだ(彼がオランダ語を知らないと、私は彼と意見を疎通することが出来なかった)

幸いに彼らは早くもその年の終わりにはオランダ語で一応文章を書き、日本の通詞と言われる連中が足元にも及ばぬほど良く話せるようになった。


源右衛門が集めた品々

源右衛門は培ったオランダ語で日本の位置、政府、精度、宗教、歴史、家庭生活などについて詳しくケンペルに教えた。かつあらゆる文献を探し求めた。時には「身に危険の降りかかるような骨折り」もした。

下根問はケンペルの求めに応じて文献を買ったり、借りたりした。借りた場合は源右衛門が写本を作成した。


ケンペルが集めた文献や資料には例を挙げると、

嶋原記の訳文
長崎の地図
東海道旅行地図
江戸参府旅行図
将軍綱吉の御前で謁見する図
江戸城の謁見の間と献上品
木瓜形厨子入千手観音
押絵
新版日本国大絵図
長崎絵図
新選増補京大絵図
諸国海陸安見絵図
三十三間堂
松島
東海道旅行地図
江戸参府旅行図
大日本王代記
江戸鑑
方広寺大仏
謁見図


この他にも源右衛門が徳川家康がオランダに与えた朱印状にカタカナとオランダ語で読みを付けケンペルに送ったものが保存されている。


オランダ語の試験を突破した源右衛門

1695年8月15日、出島のカピタン部屋にてオランダ語の試験が行われた。

源右衛門はこの試験に合格し稽古通詞となり、その後出世を重ね最終的には大通詞になった。

試験官: 旧商館長ヘンドリック・ダイクマン
    新商館長コルネリス・フォン・オウトホールマン
            次席館員ヨースト・フィッシャー
           上外科医マティス・ラケット
           大通詞、小通詞 

試験内容: オランダ語会話、外科医学の通訳



ケンペルはどのように源右衛門にオランダ語を教えたのか?

今村源右衛門はまず会話は重点的に訓練されてきたと思われる。内通詞はそもそもその職務の都合上口頭のコミュニケーションを重視していた。源右衛門も子供の時から出島に出入りしてオランダ人との会話を行ってきた。

子供の時から会話していたということはどの程度か分からないが発音もオランダ人が理解できるレベルだったと思われる。それに加えてケンペルに日本の文献を通訳して内容を教えたり、ケンペルからの薬物学の授業を通して単語を学んでいっただろう。

当時は紙も貴重品だったため筆談では限界があるだろうから口頭でのやり取りが重点が置かれてきたと思われる。

日本や中国の分籍も翻訳したのでオランダ語文法、作文技法もかなり教え込んだはずだが、今村源右衛門の時代はまだ長崎通詞の間でも構成の時代ほどオランダ語文法は解明されてない時代である。ケンペルは自分が子供の時に習った授業を思い出して文法や作文を源右衛門に教えたのかもしれない。


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