江戸時代のオランダ語勉強: 蘭語通詞の生活、日々の勉強
江戸時代に長崎には出島があり、そこではオランダ人達が住んでいた。通訳を担当していたのは長崎通詞だった。長崎通詞は江戸通詞から舌人と呼ばれるぐらい蘭語会話に精通していた。今のような便利な外国語教材も無かった時代に彼らはどうオランダ語を学んだのか片桐一男の「阿蘭陀通詞」から学んでみる。
オランダ通詞の日々の業務
基本的には、
1) 長崎奉行・長崎奉行所に対する仕事
2) 長崎会所ならびに長崎町年寄等役人に対する仕事
3) 出島のオランダ商館に対する仕事
4) 阿蘭陀通詞団自体に対する仕事
5) 私的な仕事
オランダ通詞の役職
例を挙げると、本木仁太夫良永は以下のような役割を担った。
・14歳 口稽古
・15歳 稽古通詞
・32歳 小通詞末席
・43歳 小通詞並
・48歳 小通詞助役
・53歳 小通詞
日々の業務
大まかな蘭語学習の内容
後述のように文献を読む江戸通詞と違い長崎の通詞はオランダ人に接して業務を行っていた。当然、読むだけでなく、会話やオランダ語での作文にも通じている必要がある。
当時の通詞の日記にも今日は何を練習したとか、どの本を読んだなどの記録は残されてない(当時の日記は一家の記録のようなものだったので、イベントのような特別なこと以外はいちいち書かなかったのだろう)
江戸通詞の内長崎に留学した者の日記から以下のことを行っていたことが分かる。
「アベブック AB Boek」、「レッテルコンスト Letterkonst」
英語ではそれぞれ、AB Book, Letteringとなる。
その名の通り、アベブックはアルファベットを学ぶ教科書だった。修行段階の稽古通詞や子通詞が使用していた。
アベブックは本国オランダの子供も学習していた内容であり、内容は、まずアルファベットの例が書かれていた。アルファベットの例には大文字、小文字、ローマン、イタリック、筆記体が記されていた。
また、それぞれのアルファベットには単語の例も書いてあった
この他にも、子供の教育のための宗教的訓話もあった。
アルファベットだけでなくオランダの文化や歴史についても学べる書物だったようだ。
「エンケルウォールド Enkel Woord」
英語ではSingle Wordという。こちらは天文、地理などの単語を集めた教科書になっている。
日本人がオランダ語の単語をまとめた単語帳は様々なものが作られた。
「サーメンスプラーカ Samen Spraak」
英語ではconversation。会話の事だ。
内容は、複数の会話の例をまとめたもの。
長崎通詞もオランダ語会話学習のテキストとして使用したようだ。
江戸通詞の間でも蘭語撰の名前で写本が使用された。
会話の例
これをGoogle翻訳にかけてみた。一番近い外国語として英語に翻訳してみた。正しく翻訳された。
ただし現代のオランダ語と違うようで以下のように直された。
(長い間でオランダ語も変わったようで、日米和親条約の時などもオランダ語が使用されたが、江戸通詞の書いたオランダ語は本国オランダ語でも使用されないような古いものだったようだ)
他の会話も英訳してみた
「オップステルレン Opstellen」
Opstellenとは英語では、公式、定式化のこと。つまり文法のこと。
日常会話を会得した後は、業務のためにオランダ語の作文の練習が必要になる。作文のためには当然オランダ語の文章の構造を理解し正確に意味を理解しないといけない。通詞も長い年月をかけてオランダ語の文章の規則に気づき体系化していったと考えられる。
様々な西洋の自然科学の翻訳、地動説の翻訳も行った本木良永も長崎通詞として教育を受けた1人だ。彼の書いた「和解例言」の中には、アルファベットの知識に加えて、オランダ語の発声方法も記されている。
多くの通詞にとって大きな影響を及ぼした本だ。しかし、この段階ではまだオランダ語の文法の説明までは至ってない。
志筑忠雄(中野柳圃)はWillem Sewelの文法書の原語を読んだ。
ここで品詞や動詞の理解を深めた。
長崎通詞の日々の勉強について
江戸時代では書物は声に出すことを「読む」と言っていた。今のようにただ目を通すだけでは「見る」と呼んでいた。
儒教の学習法は子供の時は素読(文章を先生の真似をして声に出して読むこと)、大人になると講釈と会読(文献を読み、それについて他の生徒相手に講義を行う。質疑応答もあるため深い理解が必要になる)を行うことで儒教の教えを熟知することが広く行われていた。
紙は今より貴重品だったため無駄遣いはできない、そこで声に出して読む、自分なりに解釈し他人に教える、という勉強法が広まったと思われる。ただ書物を紙に書いただけ、読んだだけでは頭に入らない。
オランダ通詞も声に出してオランダ語の文章を話すことは今の学校の授業よりも徹底していただろう。
今村源右衛門の場合
階級があった江戸時代、通詞の中でも格が落ちる内通詞から語学力で成り上った男がいる。彼はオランダ船で日本にやってきたドイツ人ケンペルの秘書のようになりオランダ語を磨いた。
参考: 「阿蘭陀通詞 今村源右衛門英生 外つ国の言葉をわがものとして」
ケンペルとは?
ドイツ人エンゲルベルト・ケンペルはオランダ東インド会社の日本商館付医師として1690年9月25日に長崎にやってきた。1962年10月31日に長崎を去るまで2年間日本を滞在した。
ケンペルは日本を研究しヨーロッパでも本を出版した。この研究のための豊富な資料、日本文化理解のためには日本人の協力者が不可欠だった。
メモ: ドイツやオランダは山が少ない。対照的に日本は国土の3分の1は山である。つまりヨーロッパに存在しない植物、そこから作られる薬は彼らにとっては良い研究対象となった。
ケンペルと今村源右衛門の出会い
ケンペルは当初、日本人に酒を振る舞ったり、天文学や数学、薬物学を教えて日本人取り入った。日本人も珍しい外国の事を興味深く話を聞いた。ケンペルは自画自賛するほど日本人と交流が上手くいった。そのうち彼らから日本の情報を教えてもらえるようになった(中には極秘情報もあった。ケンペルも「日本人はヨーロッパ人のように神が見ている、神が定める倫理に従うという考えがない、2人きりになれば極秘情報を教えてくれることがある」と日本人の精神を分析していた)
しかし、彼らの情報は断片的で体系だったものではない。正確な日本国理解には不十分だった。そこで内通詞の当時満18歳の今村源右衛門に目を付けた。この若く知識欲に燃えた若者を部下にし、ケンペルは源右衛門にオランダ語を教授し、源右衛門を情報・資料の収集、日本研究の助手として活用した。
今村源右衛門は元々どういう仕事をしていたのか?
内通詞の仕事内容は、「オランダ会話および通訳が出来る者が日蘭貿易中二、オランダ人に付き添って商品の売買の手助けを行い、手数料をもうらことで生計を立てる」
このように、内通詞は元々オランダ語会話を重視していたことが分かる。オランダ人と良い関係を気づく、通訳能力は彼らの生活を左右するからだ。語学は必要に迫られるからこそ伸びる。現に源右衛門も幼いころから出島に出入りしてオランダ人の小間使いとして働いていた。
源右衛門のスパイ活動
当時日本は鎖国(と言わぬまでも貿易国を制限)していた。外国を警戒しているので外国から帰ってきた日本人も再入国も厳重に行われていた。日本地図、日本の情報は持ち出し厳禁だった。
シーボルトもケンペル同様に日本人の協力者がいて様々な日本の文献を集めて持ち帰ろうとした。しかし、嵐で船が座礁しそのことが幕府にバレた。協力者も厳重に処罰された。幸いケンペルは活動が明るみに出なかったが、一歩間違えれば源右衛門も同様に処罰されたに違いない。
このような国情で源右衛門はケンペルのために様々な資料を集めたのだ。源右衛門は命の危険を冒して情報を集めたスパイのようなものだ。
ケンペルも源右衛門を高く評価していたことが分かる。
源右衛門は武士なので日本や中国の漢文の勉強をしていただろう。その知識が役に立ったはずだ。
ケンペルは源右衛門にまずオランダ語を教えた。
最終的に源右衛門の語学力は、ケンペルが記すところによると、
源右衛門が集めた品々
源右衛門は培ったオランダ語で日本の位置、政府、精度、宗教、歴史、家庭生活などについて詳しくケンペルに教えた。かつあらゆる文献を探し求めた。時には「身に危険の降りかかるような骨折り」もした。
下根問はケンペルの求めに応じて文献を買ったり、借りたりした。借りた場合は源右衛門が写本を作成した。
ケンペルが集めた文献や資料には例を挙げると、
この他にも源右衛門が徳川家康がオランダに与えた朱印状にカタカナとオランダ語で読みを付けケンペルに送ったものが保存されている。
オランダ語の試験を突破した源右衛門
1695年8月15日、出島のカピタン部屋にてオランダ語の試験が行われた。
源右衛門はこの試験に合格し稽古通詞となり、その後出世を重ね最終的には大通詞になった。
ケンペルはどのように源右衛門にオランダ語を教えたのか?
今村源右衛門はまず会話は重点的に訓練されてきたと思われる。内通詞はそもそもその職務の都合上口頭のコミュニケーションを重視していた。源右衛門も子供の時から出島に出入りしてオランダ人との会話を行ってきた。
子供の時から会話していたということはどの程度か分からないが発音もオランダ人が理解できるレベルだったと思われる。それに加えてケンペルに日本の文献を通訳して内容を教えたり、ケンペルからの薬物学の授業を通して単語を学んでいっただろう。
当時は紙も貴重品だったため筆談では限界があるだろうから口頭でのやり取りが重点が置かれてきたと思われる。
日本や中国の分籍も翻訳したのでオランダ語文法、作文技法もかなり教え込んだはずだが、今村源右衛門の時代はまだ長崎通詞の間でも構成の時代ほどオランダ語文法は解明されてない時代である。ケンペルは自分が子供の時に習った授業を思い出して文法や作文を源右衛門に教えたのかもしれない。
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