私の病気と過去、この先について

CLナポリ戦まで2日です。
ドキドキしてRouge

閑話休題

北海道は徐々に気温が高くなり、雪解けの兆しも見せてますが、多分まだ2〜3回は吹雪くでしょう。
現状大きな通り以外はグッチャグチャの道でそこら中で車がスタックしてます。
ジムニーがスタックしてるのを見て震えました。お前はスタックしちゃダメだろ。
かく言う私の納車ホヤホヤのWRXも2回スタックしてます。
スタックはするのですが、さすが300馬力というべきか、踏み込めば簡単にヌルヌルっと抜け出せます。
いやぁ、300馬力、すごいですね。
前車とはもう車としての格が違う感じです。
S660、インプレッサスポーツと乗ってきましたが、当たり前にダントツで速いです。
整備士の友達にも乗ってもらいましたが、「トルクがレベチ」と言っておりました。私はトルクがなんだかわかりません。ワインボトルに付いてるあれかな?

閑話休題

今日はバルセロナの話をしようと思います。

閑話休題

今日は私の病気について書き留めておこうと思います。
死ぬほど長くなると思うのでここでブラウザバックをおすすめします。見てて気持ちいい話じゃないし。

98年、爆誕

わたくしがこの世に爆誕したのが98年、平成でいうと10年です。
今年26、立派なおじさんです。
98年というと流行語で「だっちゅーの」が流行った年らしいです。
だっちゅーのって98年なんですね、もっと昔のことだと思ってました。
生まれてからは普通の子どもと同じようにスクスクと育っていたらしいですよ。

08年、暗雲

いきなり10年もぶっ飛びますが10歳になるまでは語ることがないのですっ飛ばします。
小学4年の頃でしょうか、この頃に母親が私の食が異常に細い事を心配するようになります。
当然病院に連れて行かれる訳ですが、ロクな検査もせず「身長も小さいからKeiくんの個性ですよ」と言われ続けました。
身長小さいのが個性、この年になって聞くとグーで殴りたくなりますね。
ここから今に至るまで長い年月をかけて徐々に病気がわかっていきます。

09年、緊急搬送

緊急搬送されます。
アホみたいな腹痛で小学生ながらに命の危機を感じ、這いつくばってリビングまで行き親に助けを求めました。
すぐに母親が親父を呼び病院に連れて行こうとしますが、親父が飲酒をしていた為車を出せないと。
この時私の意識はもう7割飛んでいました。
気づいたら救急車の中
病院で何をしたんでしょう。あまり記憶にないですが、おそらくレントゲンなどでしょう。
気づいたら病室にいました。鼻にバカでかいチューブが入ってる状態で。
そのまま1週間程の入院、この間に精密検査などは行われず、絶食だけ。今思うと職務怠慢レベルじゃないかと思いますが…

12年、長期入院

中学1年生の冬でしょうか、食べようと思っても空腹感がなく全く食べれない時期が続きました。
自分は部活もあったので大丈夫だと見栄を張っていたのですが、しびれを切らした母親に病院に連れて行かれ、「異常な低体重」との診断で即入院となりました。
治療はとにかく栄養を。と中心静脈カテーテルというものを上腕に留置。そこから高カロリーの輸液を行う。というものでした。
もちろん口からも頑張って食べてね。とは言われていましたが、全く食べれず。
もちろん拒食症を疑われる訳で同じ病院の精神科に入院中受診することになります。
長いカウンセリングや診察を終えでた診断は「この子は拒食症や摂食障害の類ではない」との診断。
小児科のドクター達にとってこの診断は意外だったようですが、自分としては食べる意志があるのでこの診断はまぁ妥当だろうと。
そのまま特に何も進展せず中心静脈栄養、経鼻チューブなどの治療をしますが、好転せず。
中学2年に上がる時には少しだけ体重が増えたので学校に少しずつ通うように。
ですがそれも少しの間だけ…

中学2年、親元を離れて療養

当時自分の住んでたドクソ田舎ではもう無理だと判断した親が少し離れた大きな街の病院に自分を連れていきました。
そこでも即入院の診断、親元を離れての療養が始まります。
3ヶ月程でしょうか、鼻から胃までチューブを挿入し、そこから栄養を入れるという、個人的には死ぬほど嫌いな治療が功を奏し、体重がグングン増加、無事退院し、鼻からチューブを突っ込んだまま学校に通うようになります。

中学3年、元気な印、パズドラとの出会い

3年に上がる頃にはチューブも取れ、体重はかなり低いですが何故か体力だけは無限にあったのでサッカーにひたすら打ち込む日々が始まります。
運動をすると腹が減る。当たり前ですがこの頃の私はこの生理現象が堪らなく愛おしく、毎日バクバク飯を食っていました。
おかげでサッカー部でもCBに定着、背番号3を貰いいざ行かん、バルセロナ状態だったのですが、この後中体連でタコ負けします。それはもう驚くほどに。
部活も引退し、秋、今でも交流がある親友にパズドラを進められるがままに始めてどハマリ、受験シーズンに突入だというのに将来を棒に振る勢いでパズドラを友達とやりまくります。
その結果定期テストではガンガン順位を落とし、母親に担任からパズドラをやめさせるように言われるほど。
ですが中学1〜2年とろくに学校生活を送れなかった自分の意思を尊重し母親は友達とパズドラをやる事に文句は言いませんでした。ありがとう。本当に。
中学卒業までパズドラをやり抜き最高の青春が送れたのは母のおかげです。

この冬、再び体調が悪くなります。

自称進学校の恐怖

自称進に進学します。この時もう体調は最悪の状態。
自称進なだけあって授業内容はかなり難しいものでした。体調も悪いのに成績も悪い。俺は何しにこの学校に来たんだと。日々自問自答。結果身体の色々蛾限界を迎え入院…

したのですが、もうここまで来たら食えねぇのは気合の問題だと履き違え無理して食べてお腹を痛め、無理して我慢してやり過ごす。
そしたら栄養状態も表記上は良くなり、退院。と思い描いていた通り進みます。
高校に戻る頃には勉学を諦め、陽の道に進もうと人生最大の陽キャ期間が訪れます。
結果成績はガンガンギンギンに落ち続け、最終的には160人中131位という人生最低の順位を叩き出します。
担任にも「お前、せっかく元気なったのにもう大学は無理だな。」と1年生の段階で言われる始末。
ここでKeiくんは悟ります。
この世界は'陽'じゃない。'頭のデキ'だ。小さい頃は足が速い奴がモテるように、高校では頭の良い奴が担任に好かれるんだ…と。
私は掴み取った陽を捨て、勉を掴みに取りに行きます。

溢れる参考書の乱反射

高2に上がる前の春休み、私はこの1年の思いをなぞるように必死に勉強をします。
目標は高2最初の定期テストで60位。
親に頼み家庭教師も付けてもらい、クラス替えもいい感じに大人しいクラスに。
貰ったお小遣いは全て参考書に注ぎ込みました。
最終的的な目標はあの担任に、大学は無理だと言ったあの担任に、「よく頑張った」と言われるために。
ついでに言っておきますが体調は絶好調でした。
高校二年生ではキャラが変わったように勉学に励み、結果的に高2学年末テストでは30位まで順位を上げることに成功。
体調も上々、まさに人生の頂点。
好きな子と席がずっと隣だったし修学旅行でいい雰囲気になるしもう言う事なし。私の忘れてきた青春がそこにありました。

高3、人生のターニングポイント、すべてが始まる

という訳で高3です。
文系です。
好きな教科は日本史と地学です。
何だか最近体調がおかしいです。
だけど受験生、大学に行くために私は止まらない。
土日、勉強。お腹が痛い。
夏休み、毎日勉強。お腹がとても痛い。
冬休み、もう少し、ここを抜ければ大学生だ…

気づいたら病院のベッドの上でした。
日付はセンターの1週間前。
何が起きたのか、無理をしすぎたか。
深刻そうな顔の両親。何かを話している。私に聞かせてくれ。何が起きたのか。

ここから、長い、長い入院生活が始まりました。
お分かりの通り当然センターは受けれず、卒業式も出たら駄目と言われましたが、頼みこみ、卒業証書を受け取る事だけ許可されました。

最初は総合内科に入院していたのですが、高校卒業のタイミングで「精神科に移ってくれ」と告げられます。
なぜ私が?精神を病んでるとでも思ってるのかこの医師は?と怒りすら湧いてきましたが、精神科の医師によるともっとカウンセリングが必要。閉鎖ではなく開放病棟で特別にスマホやゲームなどの持ち込みも許可する。との事だったので、まぁカウンセリングくらいならと、この日から精神科へ。

精神科、すごいんですよ
すごい人たちがいっぱいいました。
最初はその人たちが怖くて怖くて。
でも1日も経つと彼が悪い人ではないと気付くんです。優しい人たちでした。
そして一週間に渡るカウンセリングやら検査の結果、「大学入試のショックはあるが、精神的異常は認められず。」と診断。晴れて精神科を出れる訳です、そして札幌への転院も一週間後と決まっていました。
私の話を聞いていためちゃくちゃ若い医師が「転院するまでの一週間、もう少しだけ話を聞かせて欲しい」と頼まれます。
もう精神科なんて懲り懲りな訳ですが、もうどうてもいいや。の精神で一週間延長を許可。金くれ。
延長の結果どうこうはなかったので無事に転院です。

発覚、治療、絶望

札幌の大病院に転院後、すぐに精密検査の数々を受け、色々な事が発覚していきます。
担当医から「もっと早くこの病院に来てたら…」と言われ親子共々顔面蒼白。恨むよ、地元の病院、ろくに検査せず点滴だけ、おまけに精神科にぶち込むし。
ここからはつらーい治療が半年ほど続きます。
もう手が疲れてきたので詳細は省くけど、食べたり、CVポートを入れたり、胃ろうを作る手術をシラフで受けたり。おおよそ19歳程の人間が半年で経験していい事のキャパを完全に超えてました。
痛い、気持ち悪い、お腹痛い。
お腹痛い。気持ち悪い。点滴の管が邪魔。
お腹痛い。なんで私がこんな目に。死にたい。

結果、不眠症にかかります。(今も続いてます)

在宅療養、覚悟

ここまで来るともうここ数年の話です。
点滴をしてメインの栄養を投与しながら口から食べ、腸を動かす。
毎日この繰り返しです。
2022年にはそれまでほそぼそとやっていた仕事も体力の限界を感じ辞め、在宅ワークに切り替えます。

今、私は物を食べていません。
輸液が文字通りのライフラインです。
食べない理由は、今更少しずつ食べ始めたところで、長く生きれない。と言われてるのに努力する意味がないと思っているから。
だから何も食べてなくても病院の先生も特に何も言いません。頑張って食べてみてね。その程度です。
ですが、もう食べる楽しみもとうに失っています。
お腹も減らない。
だから今、この瞬間を楽しむ為だけに生きています。
明日死んでも文句言えない。くらいの勢いで毎日生きています。
楽しいですよ。サッカー見て、ゲームして、車乗って、たまに仕事して。
他の人より長くは生きられないけど、誰よりも濃い人生を過ごしていると思っています。
これを書き留めている今、現在進行系で右胸のチューブから点滴が24時間入ってるわけですから、面白いものです。

総括

バルサはナポリに勝て。

お わ り

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