時事薔薇絵亭【27】(No.427より転載)

インドの「反同性愛法」に立ち向かうのは王子サマ!?

 イギリス植民地時代の「負の置き土産」である「同性間の性的関係を犯罪とする法律」が、いまも健在だというインド。そんな国で「現体制をくつがえそうと頑張る人物」がいるそうなのだが、それはなんと「王子サマ」なのだという!

 インドで最も有名なゲイ、マンベンドラ・シン王子(52)。(中略)10代の頃に男性に恋愛感情を抱いたことを周りに打ち明けることなく大人になり、周囲のプレッシャーから女性と結婚した過去も。もちろん夫婦生活は上手くいくわけもなく、わずか15カ月で終焉を迎えた。(中略)
 2005年にマンベンドラはついに家族にカミングアウトした。このとき母親は新聞広告で「息子を勘当する」と掲載し、翌年には親族からも見放された。(中略)
 自らの経験からLGBTQの人々の受け皿が必要だと考えたマンベンドラは彼らをサポートする施設の建設を進めている。(中略)所有する約6万平米の敷地に立つ4ベッドルームの宮殿を改装・核張し、収容人数を増やす。(中略)
 マンベンドラは「子供を持つつもりはないし、彼らのためにこのスペースをうまく利用しない手はない」と考える。(ニューズウィーク日本版 2018年1月11日)

 このマンベンドラ王子の活動は徐々に実を結びはじめ、昨年8月にはインド最高裁が「LGBTQの人々が自らの性的指向を表現する自由」を保障したという(まぁ「同性同士のSEX」のほうは違法のままだそうだが)。
 勘当されたとはいえ王族で、しかも6万平米(=1万8150坪=東京ドーム1.3個分)という広大な王宮を有していることも、活動の追い風となっているのだろう。この王子は「活動家」であると同時に「LGBT解放運動の最大のパトロン」でもあるのだ。
 インドのように、「英国統治時代に強いられたアンチ同性愛法(ソドミー法)が、イギリスから解放された現在でも生きている国」というのは想像以上に多い。しかし当のイギリスは過去の悪行など無かったような顔で、「LGBTの人権を認めない国には援助しない」とかホザいているそうだ。そう「脅迫」されたアフリカ諸国は、そんなイギリスに対して「イヤイヤイヤ、元々はアンタらが持ち込んだ法律でしょーが!」と猛反発したというが、イヤハヤもっともな話である。
 日本では明治5(1872)年から10年間だけ、肛門性交を禁じる「鶏姦罪」というのが設けられたことがあったが、それ以外に同性愛を法的に禁じた歴史はない。これも欧米列強に支配されなかったおかげなんで、ゴネずに退位してスムーズに明治維新を迎えさせてくれた徳川慶喜公には心よりの感謝を捧げたい。
 もしもインドやアフリカみたいに植民統治をされて日本でもソドミー法が施行されていたとしたら、今どんな状況になっているだろう? 横紙破りが苦手な国民性だから、マンベンドラ王子みたいな人物も現れず、ひょっとしたら「世界最悪のアンチ同性愛国」とかになっていたかもヨ!?

文化イベント主催者による非文化的愚行ってなんじゃ!?

「性愛の多様さ」について幼少期から知っておくのは非常に大切なことである。ボクにしたって小学2年生の時に児童向けの性教育本で調べて「同性愛者は社会の少数派ではあるが、同性愛自体は特に忌むべき事柄ではない」と知ったおかげで、その後の人生で「性的指向で悩む」ということが一切なかった(それプラス「バイアスのほとんどない家庭環境」の影響も大きかったが)。
 ――だがしかし、「そういうものは子どもの目に触れさせるべきではない」と考える人々も一定数いるようで、クロアチアではなんと「焚書」の憂き目にあったという。

 クロアチアで初めて出版された同性カップルの家族を描いた幼児向けの絵本「Myy Rainbow Family(私の虹色家族)」には、男の子がスキーを履くのを手伝う2人の母親の様子が描かれている。この本の目的は、厳格なカトリック教徒が多いクロアチアでの人々の態度を変えること。(中略)
 アドリア海に面するスプリト近郊のカシュテラで行われた子ども向けのカーニバルで、主催者らが集まった数百人の子どもと親たちの前で、この絵本を燃やすという出来事があった。これを受け、出版元の「レインボーファミリーズ」など三つのLGBT権利擁護団体は、主催者らを刑事告訴した。
 カシュテラの市長は、カーニバルでは何かしら悪を象徴するものを燃やすのが慣例となっているとして、主催者側を擁護。権利擁護団体側はこの主張を一蹴した。(AFP=時事 2018年2月13日)

 洋の東西を問わず、炎には「魔を滅する聖なる力」があるとされ、世界各地でさまざまな火祭りが行なわれてきた。その事実はもちろん百も承知しているが、それとこれとはまったく次元の異なる話である。
 みなさんご承知の通り、ボクは「LGBT至上主義者」ではなく、むしろその種の人たちとは意図的に距離を置いている。だから、「あまりに急進的・先鋭的すぎる啓発書」のたぐいには懐疑的な立場にあるのだけれども、だからといって「火にくべていい」とは全く思わない。
 世の中に「反面教師」なる言葉が存在するのは、「これはちょっと……」と眉をひそめたくなるようなシロモノだって工夫次第で「教材」になりうるからであり、だからボクは「噴飯モノのトンデモLGBT本」であっても「資料」として収集し続けているのだ。
 クロアチアの件で何が最大の問題かといえば、かりにも文化イベントを主催する者が「焚書」という「人として最低な非文化的行為」を行なったことである。まがりなりにも「文化事業従事者」としての矜持があるならば、焚書なんぞは「命に代えてもやらない・やらせない」はずだが、かの国では自ら進んで行なってしまっている。
 最悪なのは、そんな暴挙を行政トップの座にある市長が容認してしまっているところだ。クロアチア全体がどうなのかはわからないが、少なくともカシュテラ市では「文化が死んでいる」と言えよう。
 特定の人間の思惑で物事の善し悪しが定められ、権力者の認めたものだけが子どもたちに届けられるような状況というのはホントに怖いことだ。そんな環境下で育った人間がどんな大人になるのか、考えるだけで震えがくる。
 今回の件はLGBT権利擁護団体のみならず、クロアチア国民全体が「オイオイ、ちょっと待ってくれや!」と声を上げる必要があると思う。これを看過・放置しておくと、このさき「アンチ同性愛派」の連中は「同性愛以外の案件」にも口をはさんでくるかもしれないのだから。
 隣人が迫害されてるのをヘラヘラ笑いながら見物してたら、自分のほうにも弾圧の手が伸びてきた――みたいな例はいくらでもあるのだ。
「多様性を尊重する」とは「自分と真逆な価値観であっても、その存在と権利を認めて守る」ということ。たとえ厳格なカトリック教徒が多い国だとしても、クロアチアを「多様性尊重国」にするためには、国民が一丸となって、「そりゃワシらだってホモレズなんざ大ッ嫌いじゃ! けど、だからといって『燃してもいい』って話にはならんのじゃボケ!」と弾圧者を一喝する必要があるのですワ。いやホントにね。

韓国の女性映画監督糾弾はハリウッドと繋がってる!?

 性的暴行といえば、かつては「男→女」というケースしか想定されていなかった。しかし、インターネットが普及して「一個人の声」も世の中に届けられるようになってくると、それまで想定外だった「加害者が女性」というパターンも無い話ではないということがわかってきた。
 また、LGBTという言葉が広がっていく中で「同性間レイプ」にもスポットライトが当たりだした。その大半は「男対男」のものだが、このほどお隣の韓国から「女対女」のレイプ事件のニュースが飛び込んできた。

 同性への性的暴行容疑で有罪判決を受けた韓国の女性映画監督イ・ヒョンジュ氏(36)が映画界を引退する立場を明かした。(中略)
 イ監督はソウル市内のモーテルで酒に酔った被害者B氏(映画監督)を強姦した容疑で、昨年9月に懲役2年・執行猶予3年・40時間の性暴力治療講義受講を命じられていた。(中略)
 イ監督は(中略)被害者B氏との関係は双方の合意下でなされたものと主張。また、「捜査と裁判過程で、同性愛への偏見と歪曲された視線を耐えなければならなかったが、私の主張は全く受け入れられなかった」と訴えていた。(WoW!Korea 2018年2月8日)

 報道によれば、イ監督は当夜の様子をこのように説明したという。

 被害者がいつの間にか泣き始め、何かが起きたかのように嗚咽しました。そんな被害者をなだめる間、自然と性関係を持つことになりました。当時、私としては、被害者が私との性関係を望むと感じるほどの事情があったので、当然、性関係への被害者の同意があったと考えるほかはありませんでした。

 けれども裁判では訴えのすべてが却下され、イ監督は有罪判決を受けてしまった。そうした司法判断を受けて、所属していた「韓国映画監督組合」はイ監督の永久除名手続きを検討し、2017年に「今年の女性映画人賞」なるものを授与した「女性映画人の集い」は賞の剥奪を行なったそうだ。
 そんなドン詰まりの中での「引退宣言」なわけだが、これは致し方ないことかもしれない。韓国ではスキャンダルに追い詰められた有名人が自殺をはかるケースなどが散見されるが、アチラの大衆のバッシングの凄まじさは日本の比ではないように見える。そんな国で無理して監督業を続けたところでスムーズに事が運ぶとは思えないし、意地を張ったことで心が折れてしまうかもしれない。ゆえに、イ監督が心身の安全を保つためには映画界から身を退くのが一番だろう。
 この事件は、例のハリウッドの「#Me Too運動」と通底する話である。まぁ、あちらの発端となったのは「大物映画プロデューサーによる長年のパワハラ&セクハラ」で、「恋愛関係に基づく行為のつもりだった」というイ監督のケースとは成り立ちが異なるけれども、ハラスメントというのは「された当人が苦痛を感じたら成立するもの」だそうなので、理屈的には同じだ。根底にあるのが「歪んだ征服欲」だろうが、「恋愛関係にある、という勘違い」だろうが、やられた側にしてみれば大差ないのである。
 アメリカの「#Me Tooムーブメント」に対してはフランスの二大レジェンド女優、カトリーヌ・ドヌーヴ(74)とブリジット・バルドー(83)が批判の声を上げ、性に関する両国の意識差があらわになった。
 ドヌーヴ氏は「女性へのセクハラは許されない行為である」としたうえで「男性が女性を口説く権利はある」「#Me Too運動はまるで魔女狩りだ」と訴え(後に抗議を受けて発言の一部を撤回)、バルドー氏に至っては運動に参加している女優たちを「ほとんどが偽善者でバカげている」「役を得ようと自分からプロデューサーに思わせぶりな態度で近寄っているくせに、後になってセクハラされたと主張している」と糾弾した。さらに、「自分は一度もセクハラ被害にあったことはない」「男性たちからキレイだとか、小さくてステキなお尻だと言われるのは気分が良かった。そういった褒め言葉は嬉しかった」と語ったという。
 もちろん「パワハラ&セクハラが横行する映画界」なんてあってはならないのだが、しかし映画というのは「人の心の機微をアートの域まで高めてスクリーンに投影する芸能」なわけだから、軽々にセクハラなんぞと口にするような無粋なマネはしないでいただきたいものだ。
 かつてのアメリカには「マリリン・モンロー」という「国民的セックスシンボル」がいて、もしも彼女が健在だったらドヌーブやバルドーらときっと歩調を合わせたと思う。とはいえ、現在のハリウッドの「異論を許さない空気」は、彼女のような存在は決して認めないだろう。その空気が韓国映画界にまでおよんでいるのだとしたら、残念ながらイ元・監督が現場復帰できるチャンスは「限りなくゼロに近い」と言わざるを得ない。
 ただ、ドヌーブやバルドーのいるフランス映画界だったら、ひょっとすると捲土重来が果たせるかもしれない。イ監督が今回の容疑を本心から「濡れ衣だ!」と思っているのならば、あちらに渡ってみるのもひとつの手ではないだろうか。
 個人的には今回の件でフランス女優の心意気を見せつけられた気がしているので、イ監督とのコラボレーションには興味津々である。
 ひょっとしたら、それが現在の映画界の硬直したムードの突破口となるかもヨ!? ■

Illustration ソルボンヌK子

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