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何かを表現するということ

何かを表現するということは、とっても恥ずかしい行為だ。
見えないように作られている人間の内側を曝け出すだなんて、簡単にできることじゃない。
勇気を出して表現したところで、それが正しいという保証もなく、しまいにはお前は間違っていると貶されたり、そもそも素通りされたりもする。
自分の手の内は見せず、人の内面は表現されているものが全てだなんて飛んだ勘違いをした上で、取るに足らないと、名乗ることもしない。
こんな失礼極まりないことがあるもんか。

***

なーんてね。思ったりもする。
言葉には二面性がある。
反語がいい例だ。
わかりにくければ、お近くのツンデレさんとおしゃべりしてきたらいい。

学ぶこととは優しくなることである。
優しいとは思いやることを行為にした結果である。
思いやることとは、想像することである。
想像することとは、自分がみたり聞いたり、味わったりした経験からこういう感じかなあと思いを馳せることである。
それがつまり学ぶことである。
したがって、学ぶこととは優しくなることである。

表現されたものから、表現されなかった心情を読み取る。
影を見ながら、自分の存在を認める。

世界は二面性で溢れている。

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テストで点数をつけたり、評価して選抜することが悪いことだとは思わない。
むしろ、それを不当な扱いだとして、偽善的な平等を唱える方がどうかと思う。
和歌、というのは決められたルールの中で創作されることで洗練されてきた。
もちろん例外的な表現を取り入れたり、同じ詩(うた)でも現代風なものにも別の価値があるのは承知している。
でもそれとこれとはまた別の話さ。
型破りをするには、型を知らねばならぬ。
どんなに健康情報に詳しい人でも、医師免許すら持っていないのなら、勝手に人の体をいじらないで欲しい。
そういうものだ。

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では、評価のされていない人間の作品は価値がないものか。
それもまた違う。
なんでもかんでも、真っ白な答えが手に入るとは思いなさんな。
死して巨匠になる人もいるさ。
若い時はみなこぞって取り上げてたのに、今じゃ元気にしてるのかもわからんのもいる。
少し前、動画配信者なるもの無名の者たちが、多くの人に笑顔を届け、明日を生きる活力を与えたと聞く。
その動画一本一本が学術的価値を持つのかは知らん。
それが人類の進歩にどう貢献しているのかもわからん。
でもね、誰かに生きる勇気を与えたというのも事実なんだよ。
確かに、それじゃあ飢餓の子供たちは救えまい。
そういうもんだ。

***

何かを表現するってのは、難しいもんだ。
自分の思った通りに伝わるかもわからん。
おめえのいうことはつまんねえと言われるかもしらん。
でも、何かを表現するっていうことは、生きることなんじゃないのかね。
それを表現するってことが、キミの価値じゃあないのかね。

井の中の蛙大海を知らず、されどその青さを知る。
柔よく剛を制す、剛よく柔を断つ。

世界は誤解でできている。

答えのある問題じゃなくて、答えのない問題解決能力が必要だ。
それは、ごもっとも。
だが、それと同じかそれ以上に、何がわかっていて何がわからないのかを知ることも重要である。

***

何かを表現するってのは、誰かを幸せにすることであり、同時に誰をか傷つけることだ。
生きることとは、生きているだけで、誰かを幸せにし、同時に誰かを不幸にすることだ。
ああ、やめてしまいたい。
そんな潜在的に、誰かを傷つけるくらいなら他人の人生に踏み入れたくない。
そう思うことは、正しいことか。
正しいこととは何か。
誰が決めるのか。
誰が、保証してくれるのだ。

私は、私が、私として生きるということに責任を持たねばならんのだ。
人を笑顔にしたり、涙を流させたりすることに、責任を持たねばならんのだ。
責任持って、生き続けねばならんのだ。






表現し続けねばならんのだ。









SYuri BaoSHuGuaN


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