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洲本・淡路・阿波路

洲本城の価値
山城の基礎石垣の大きさは、600x800(M)の広さがある。この上に城があったのだから、その壮大さは想像出来る。現在の規模での築城は安土桃山時代とされる。築城目的は、秀吉による四国攻めである。大阪湾を管理支配するうえで、攻防両面で重要な位置であったと思われる。

秀吉時代から遡り、古代には物部氏が軍事的重要性がある地として管理していた経緯がある(物部氏とは、摂津河内辺りの豪族で蘇我氏と戦い敗れたことが知られている)。物部氏支配は、当時の朝廷の命によるものか否かは調査が必要である。

石垣は三熊山にある基礎石垣から、麓(現税務署辺り)まで階段状で2列存在する。これが昇垣と言われ、日本でも3例ほどしかない歴史的価値のある建造物であると言われている。
麓から昇垣を使用して一直線で城に行く通路であった。ほぼ直角の階段状であると言われている。現在三熊山は国定公園に指定されていて山林を伐採することが許されず、目視出来ない状況にあるのが残念である。山上の基礎石垣においても同様に残念である。ここ数年で一部のみ目視できるようになっている。

江戸時代に、徳島藩蜂須賀家により淡路島は管理されていた。藩主(殿様)は蜂須賀であり、淡路の国を管理するのは城代家老である稲田家であった。両者とも三河出身の野武士であったと言われている。蜂須賀は秀吉に重用されたことで有名であるが、家の格としては稲田が上位であったとも言われている。豊臣家滅亡後、蜂須賀は徳川にも重用され外様大名として徳島と淡路を管理支配することになる。山上の城は廃棄され、淡路島の統治の為洲本に出先機関を作ることを申し出たところ幕府の指示により新たに三熊山麓に25万石の大名として築城を命じられ、資産を投じることになった。1国1城の幕府方針により山上の城は無くなったが、石垣はそのままで、稲田氏が町の一部として利用していたと言われている。徳島藩=蜂須賀氏は25万石の大名であり、その格(資産)に応じた規模の築城であり、洲本城は壮大であった。現洲本税務署の入り口には車が入るのに不都合な庭園(庭石と松の木)があるが、それらは当時の名残である。

江戸時代末期―明治維新の時代において、徳島は日本で第8番目の人口を有する大経済圏であったと考えられている。現在の状態に当てはめると神戸市と同等と考えられ蜂須賀の有する資産は1兆円と想像されている。今の徳島県にはその名残は見られない。それは、明治維新の廃藩置県と同時に、蜂須賀藩主(茂昭)がその資産を持って東京に移住したからだと言われている。その資金を基に蜂須賀は明治政府貴族院議長にまで昇り詰める。聡明賢明な資質の持ち主だったと思われる。それは、蜂須賀家に11代徳川将軍家斉の子が養子縁組していることが関係するかも知れない。外様大名家に将軍家から養子が出されるのは、この一例だけである。
蜂須賀が資産を持って東京へ行けたのは、江戸末期の庚午事変や廃藩置県の出来事にもよるが、当時資産は藩でもなく、幕府でもなく、蜂須賀家個人(藩主)に属するという定義があったからである。明治政府が何らかの命(没収など)を下していれば、叶わなかったことかも知れない。また徳川家の血を引く藩主であったことも影響していると想像出来る。

13代藩主蜂須賀斉裕(なりひろ・将軍家斉の22番目の息子)の子である14代藩主茂韶(もちあき)は1872年から79年までイギリスケンブリッジ大に学び、当時の日本人としては珍しく学位を得ている。そのため英国に於いてイギリス・ヨーロッパの貴族を始め様々な人々と親交を深め世界的大富豪であるロスチャイルド家とも親交を深めた。その資産と15代将軍徳川慶喜との関係から当時の経済界の大物フロンティア渋沢栄一に投資し、現東京海上火災日動の前身である会社の初代社長に就任するなど様々な事業を展開した。また茂韶の長男である正韶には、慶喜の娘が嫁いでいる。現在の蜂須賀当主は曽孫の正子氏(独身)であり、アメリカに居住している。蜂須賀家は慶応義塾分校が大阪にあったのを買い取り、子女を教育したと言われている。その後貴族院議長となった。

一方徳島藩城代家老であり、庚午事変の相方である稲田家子孫は、北海道に渡り、そのうち邦植の妹 陽(やう)が佐藤昌介氏と婚姻した。後に佐藤氏は北海道帝国大学を創立することになる。

こうした情報により、当時の上流社会(富豪層・インテリ層)の雰囲気を想像出来る。

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