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哀福というコトバを


こんにちは、ばんけんです。


突然ですが、みなさんは「幸福」という言葉をご存じですか?



こちらの言葉は

【幸福-こうふく】
1.満ち足りていること
2.不平や不満がなく、たのしいこと。また、そのさま。

のような意味があります。





眺めているだけで心が満たされ、温かさを感じる言葉ですね。




私はこの言葉を見た時に


「【哀福】というコトバもあるのだろう」


と思いました。





少し前に「哀しい」という言葉の意味にふれましたが、私はこの「哀しい」という感情の中にも「幸せ」は或ると信じております。






そして【哀福】というコトバを求め、私はインターネットの海へ潜りました。



結果は


・コナンの灰原哀ちゃんしか出てこなかった
・【愛福】という言葉はあった

というものになりました。






私はこれを見て、やるせない気持ちになりました。






なぜ【愛福】があり【哀福】はないのか、と


言葉としての意味は同じなのに、と







なにかを想い、嘆き悲しむことが愛ではないとさえ言われてしまったような感覚でした。





私がこう感じたということは


「この世界の何処かの誰かも同じことを感じたのではないか?」


と思いましたので、このような形で【哀福】という言葉を残そうと思い筆を執った次第であります。









みなさんは

「愛とは何か」

考えたことはありますか?



私は今現在、愛というものを


「誰か(何か)を想い、生きたいと思えること」


だと考えています。






私がそう強く感じるようになったのは、正岡子規という方の「病牀六尺」というお話を読んでからになります。


正岡子規さんは日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治を代表する文学者の一人です。


結核という重い病と共に生き


余生を俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆などの創作活動をして過ごされた方です。





こちらの「病牀六尺」というお話は


正岡子規さんが病で自由に動くことができなくなり、小さな病床の世界で生きた人生記録です。


興味がある方はぜひ読んでみてください。






このお話はこのような文から始まります。


【病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅わずかに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団ふとんの外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。】






病牀六尺とは

六尺=約1,8メートル



そんな1,8メートルの世界でさえ



この方には広すぎたのです。



そう感じてしまうほどの重い病と共に生きた方ということを心の片隅に置いて、このお話を読んでいただきたいです。





しかし小さな世界の中で正岡子規さんは




時に悶絶するほどの痛みにに苦しみながらも


窓の外の世界を見ては愛で

文字を読み書きすることを愛で


自分なりの【幸福】を見つけ、これに気づいたそうです



【余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。】





死よりも生のほうが遥かに難しいと。

続けることは終わらせることよりも困難であると。



そこで私は先に述べた通り



【愛】とは

誰か(何か)を想い、生きたいと思えること



と強く思うようになりました。




幸せを知っているから哀しみを感じるのであり

哀しみを感じるからこそ幸せを知る。





「哀しみ」と「喜び」は等しく【幸せ】であると。





ならば

【哀】は【愛】にさえ成り得るのではないか、と。






私の素敵な友人のお話になりますが


「たくさん失敗しても、それ以上に笑えたらいいじゃないか」


という言葉を体現したかのような人間性であり、この方のお話を聞いて私の考えは確信へと変わりました。






「嘆き悲しむことができてこそ、幸せを深く感じることができる」

こう考えると自分の身を縛っていたしがらみさえも、多少なりとも感謝することができるようになりました。


しかしながら「哀しい」という感情に直面した時は、誰しも心が千切れてしまうような辛いものです。



その時は無理をせず、哀しみましょう。


気持ちが落ち着いた時


その時はそれ以上に笑いましょう。


そしていつか



このお話を心の中の引き出しから見つけ出し


貴方の心へあたたかいコーヒーを淹れることができますように。





この世界に哀福を。

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