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Atu XVI - The Tower

Google Earthのような、現実の空間をスキャンした3Dデータをディープラーニングさせることで、我々が認識するのとほぼ同じ空間をAIが獲得することができる。「ほぼ同じ」というのは、実は我々の空間認知もAIのディープラーニングと同様に生涯の経験とパターン認識によって造形されているからで、結果的にそれらは「似て非なる」空間であるが現象論的に「同じ」空間が立ち上がる、ということだ。我々の脳が生まれてから死ぬまで経験する空間と現象論的に同一の位相にある空間をデータとして保持できるなら、例えば人の一生の空間認知をAI内で再現、再生することも可能だ。修正もできる。ある人が生まれてから死ぬまでにみたであろう風景、いたであろう空間をブラウズ、エディットできるので、葬儀の香典返しにそのダイジェスト版を共有するのが流行るだろう。故人を偲ぶ人たちは、故人自身の思い出に、 お好みの視点で、HMDによって参加できる。しかしさてそのようなことを可能にする技術を手にしてはたと気がつくのが、今こうして経験しているこれがつまりそれかも知れない、という疑念だ。ある程度生きていると、どうにも不思議な偶然の連なり、運命的な導きを感じることが少なくないのではないか。今ここでこうしているために、何年も前から周到に準備がなされていたような、そんな感覚。自然科学と因果論ではどうしたって飛躍してしまう、意味論的かつ時空的なシンクロニシティ。これは例えば、我々がある人生経験(つまりいま体験しているこれである)を何度も何度も繰り返し再生し、その度に微妙な変更を加え、チューンナップしている、と考えると、なるほど少し合点がいく。全くのゼロからフルスクラッチで人生ドラマを創造するよりも、雛形とそのヴァリアントの再帰的な反復によるほうが、実はより複雑度の高いドラマを造形しやすいのかも知れない。しかし、なぜそんなことをしているのか、という疑問も残る。このような人生体験を、微妙な差異を孕む無数のヴァリアントを繰り返し精査し、一体何をどうしようとしているのか。というかこの人生はそれほどまでになにか意義深く重要で、そのさらなるチューンナップに邁進できるほど、おれは暇で裕福なのか。そこでこう考えてみる。この空間認知を繰り返し反復し精査しているのは、実は意識全体なのだと。ディープラーニングによって把握される空間は一視点から切り取られたハリボテではなく、たとえば惑星一個、宇宙一個まるごとなのだから、その再生と調整を繰り返している主体も、まーたとえば人類全体、あるいは眼差しているものすべて、という規模である可能性。これはさらに合点がいく。ニーチェがいってた永劫回帰、あのわかるようなわかんないような、閉じて反復する時間系とは、つまりこれのことではないか。あの時はわからなかったが今わかるのは、我々自身が、どうすればそうできるのか、という技術的な方法論を獲得したからだ。そういうことはよくあるのだろう。ヒンドゥ哲学では、この宇宙の存在はシヴァ神の一瞬きであるという。目が開いている時に宇宙は存在し、目が閉じると宇宙が消失する。シヴァ神は割と何度も瞬きをするだろう。そしてその度に、基本的には同じ宇宙を繰り返し生成し、もうちょっとあそこああしておけばよかったな、とか、ここをこうしてみたらどうだろう、という具合に、様々なヴァリアント、変奏をしているのかも知れない。シヴァ神くらいまでになると、それくらいしかやることはないような気がする。それくらいしかやることないからそうするにしても、瞬きする度に毎回、少し手を入れるのは、一体全体なんのためか。まだ物語が満足のいく完成度に達しないからだろうか。否。もはやこうなると、シヴァ神が瞬く唯一の動機づけは「外部」しかない。

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Poetic Sorcery Issue V-I
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