こんぺいとうみたいな人間になる

自分が瞑想や悟り、みたいなのにめっちゃ興味をもっていたときに気づいて、自分の信念とし、悟りとか美しい意識状態的なものへの執着を手放した話をしたいと思います。

自分は、コーチングを受けるところから始め、そこで自分自身の内面を扱う、意識状態を扱うという技術・分野に感銘を受け、そこからコーチングの勉強をしたり、インドの悟りの学校で瞑想や悟りについて学んでいました。
今もまぁ学びの旅は続けているのだけれど、最近の興味はむしろ日本古来の仏教や武士道といったものに向いています。

で、そこで学んだことで人には2つの意識状態があり、美しい意識状態と、サファリングな意識状態のどちらかしかない、という学びがありました。

常に美しい意識状態でいることはできないのだけれど、大事なのは、サファリングな意識状態になったときに、すぐに自分自身で気づき、執着を手放し、美しい意識状態に戻ろうとすること、ということでした。

なんてすごいんだ!ってことと、いかに自分は意識しないとサファリングな意識状態にいるんだってことをこの知恵を頂いたときに思ったんですが、そこから自分の内面や意識状態を常に観察する状態になって、不安な気持ちとか、恐怖とかの気持ちを扱えるようになっていきました。

でも気づくと、常に自分自身は自分のことをどこか客観的に俯瞰的にみていて、喜びも、あー今喜んでるなーとか、悲しみも、あー今悲しんでるなーとか、苦しみもあー今苦しんでるなーと、観察している自分がいて、
特に、サファリングな意識状態と言われる悲しみや苦しみを感じてるときは、観察することでその痛みを和らげ、浸ることなく、まぁそういう自分がいるのねっていうので、自分自身を美しい状態に戻ろうすることを繰り返していました。
そうすることで感情の大きな起伏はなくなり、どこか悟り風になったんだけれど(実際は風なだけで、悟ってない)、小さな角のない球に自分自身がなってしまっている感覚をもっていました。
自分が自分じゃなくなるというか、なんかちっぽけな球というか。

で、ある緊張するプレゼンをしなきゃいけない道中に、また、自分の気持ちが不安や恐怖、心配で駆られてることに気づいて、あっ、サファリング状態だ、戻ろ戻ろとか思ったときにふと思ったんです。
これだって自分の感情じゃないかって。
このままこの感情を観察してしまったら、味わっていない自分がいるじゃんって。
こういった感情を殺して、球になるくらいだったら、
自分はでこぼこのこんぺいとうになろうって。めっちゃいびつでめっちゃ凸凹とがりまくったこんぺいとうになろうってそのときすーっと思って、じゃあ、この感情・感覚を増幅させて、最大限味わおうって。

そうすると、胸はちくちく痛むし、頭も痛くなるし、汗はかくし、あーこれが不安や恐怖の感覚なんだーって思って、味わったら、すーーっと消えていったんですよね。
それで、あー自分はなかったものにしようと、そういった感情は自分にとって悪者だって思って消そうとしてたけど、それがよくなかったんだなと。
それも自分の感情であり、美しいものだって気づいたんです。

そのプレゼンは成功したんですが、それ以来自分は、
美しい意識状態なのか、サファリング状態なのかって気にすることはなくなって、今ある感情を十分に味わう、それを増幅させて、もっと自分自身の魂を凸凹させるってことをやっています。

こんぺいとうのような魂を育てあげていきたいなって思ってます。
大きな大きな、そして凸凹めっちゃしている、そんな美しいこんぺいとうに、自分は魂を育てていこうと思っています。

読んでくださりありがとうございます。感謝します。

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