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Evergreen: Unquity Road/ Pat Metheny "Bright Size Life"

僕がそのアルバムに出会ったのは高校2年の頃、地元の楽器屋に併設されているCD売り場でだった。
その頃、僕はエレキギターに熱中していた。ブルースの演奏を通して、音を使ってアドリブで自己表現するという快感に目覚めてしばらくが経ち、もっと表現の仕方は無いのかなと、表現手法を求めてジャズに触手を広げ始めていた。
とは言え当時の僕にはジャズの知識は全くなく、もちろんその頃はインターネットも無いからアマゾンレビューなんてものも無く、あるとしてもジャズ評論家の著書か音楽雑誌のアルバムレビューくらいしか音源の中身について知る手立てがなかったのだが、当時はそんな情報源があることすら僕は知らなかった。
ともかく、ジャズギターのなにがしかのアルバムを探していたのだが、その時にそれはそこにあった。

Pat Methenyという名前は当時高校生の僕には初めて聞く名前だった。曲もすべてオリジナルのようであったが、実は知らなかっただけで、オーネット・コールマンの曲は演奏されていたのだが、当時オーネット・コールマンなんてフリージャズの人なんて知る由もなかったから、ちょっと前衛的なジャズなのかなと、棚に戻しかけた。
当時僕が探していたジャズギターの傾向は、どちらかというとブルース風味多めなケニーバレルとか、グラントグリーンとか、そのあたり。自分の演奏の参考にするため、古いスタンダード曲やブルースが演奏されているものを選んでいた。

なので、そのアルバム、ブライトサイズライフ、は当時の僕のスコープには入る由は無かったのだが、参加しているベーシストにJaco Pastoriusというクレジットを見つけてしまい、心がぐらついてしまった。
Jacoというベーシストについてはここでは詳しくは割愛するが、フレットレスのエレクトリックベースで出来る表現の当時の世界の限界を軽々しく超え、常識を塗り替えてしまったとんでもないプレーヤーで、その少し前から彼の演奏の虜になっていた。

というJaco Pastoriusが参加しているからまあ最悪ハズレでも聴きどころはあるだろうと、よこしまな浅い考察を入れた末に僕はそのアルバムをなけなしの小遣いで買うことにした。


それ以来、そのアルバムとはもう28年の付き合いになるのだ。

専門的な評論家であれば、例えば、「記念すべきPat Methenyのデビューアルバム。オーネット・コールマンの楽曲を取り上げて自分のルーツを示しつつ、爽やかな音色とJacoとの絶妙が絡み合いが聴きどころ。」とかなんとかまとめてしまうのだろうが、僕にとってはそんな予備情報など無いので、Jacoがベースを弾くギタートリオのアルバムでしかなかったのだが、以来28年、そのアルバムとはなんだかんだと付き合いが続いている。

その中でも僕の心をとらえて離さない曲がアルバムの6曲目に収録されているUnquity Roadという曲である。Unquityという言葉は辞書を引いても出てこないのだが、Unという否定の接頭語とQuitという止めるという言葉が入っていることから、自分の中では終わりのない、終わりのない道という風に勝手に解釈している。

テンポの速い3拍子とも変拍子ともつかないその曲調は暗い転調が繰り返し続き、不安感や先の見えない焦りにも似た感情を起こさせる。Jacoも必要以上に自らのベーステクニックを誇示することなく、曲の世界観に寄り添い続け、Pat Methenyもテーマの後数コーラスでソロを終え、一曲の長さは3分半程度と長くはない。アルバムの収録順で言っても特段推す曲が入る順番ではない、どちらかというと小作品的な位置づけだと思われる。

僕が聴き始めた10代の後半と言えば将来に対する漠然とした不安にとらわれたり、成長過程において精神バランスが整わない微妙な時期でもあったと思うのだけど、それからというもの、何か心がざわついた時  ー想像できない未来を想いぼんやりしてみたり、ある女の子を好きになったかもしれない、などと想った時、なんだか気分がふさぎがちな時- には特にこのアルバムの片隅に収められた3分半ほどの短い曲を繰り返し聞いてきたのだ。そしてその曲は時代を経てフォーマットを変えて今もスマホに入っている。

同じ若い時代に聴きこんで、はやり病のように聴かなくなった曲は山ほどあるのだが、この曲がかかると、僕はいつでも17歳のどうしようもなく不安定な、でもまだ瑞々しかったころの心の揺らぎが蘇るようなな気がして、なにかしら心がざわつくとこの曲にすがるように聴き続けている。それをしたとて、何かが解決するわけでもなく、むしろざわつきが大きくなることも少なくなかったのに、なぜかその曲を聴いてしまう自分がいた。今更17歳の気分になってどうするんだ、という自問自答への答えは時折考えてみるものの、固まった答えには至っていない。

だけど、歳を経るごとに、聞こえ方、向き合い方が少しずつ変わってきたように感じている。その曲に出会った過去を思い出し、都度都度その曲にすがった今までを思い出しながら、遠くまで歩いてきたなという思いと、どれだけ歩いても変わらない自分、あるいは変わってしまった自分と向き合いたい気分の時にこの曲に立ち戻るような付き合い方になってきた。そんな時間がなぜかは分からないが、僕の人生において時折必要になるようだった。

色々上手くいっている時に聴くと、色々あったけどうまくやってるよな、俺、とさらに勇気を与えてくれ、色々上手くいってない時に聴くと、つらいよな、でも、それでも歩き続けるんだよ、と叱咤してくれるような気がしてならない。終わりが見えないこの道が続く限りは歩き続けなくてはならないんだ、と。特に30代も半ばを過ぎたころ、僕の中では人生を折り返したという想いがあり、今まで意識しなかった残り時間を意識するようになった。

いつ自分がいなくなってしまうかなんて、その時になってみないとわからないものではあるが、僕は35歳を過ぎたあたりで、もうここが折り返しだと半ば強引に思うようにした。もうその時から10年が経ってしまったが、僕の行動への明らかな変化としては、時間をとにかく大事にするようになった。

まったくぼおっとすることが無いとか昼寝もしないと言えばウソになるが、ぼおっとするときでさえ、ぼおっとすると決めてやっていたことが多かった。つまりなんとなくの時間を減らすようにしてきた。この10年きついことも少なくはなかった(実際すごくつらい時期はあった)けど、総じてみるとまずまず濃い10年を送れたと思っている。10年の歩みを進めながら時折聞くこの曲は間違いなく僕の背中を押し続けていたと言える。


特に彼、Pat Methenyの作品の中では語られることのない曲なのではあるけれど、僕にとっての人生の1曲はどうやらこの曲になるようだ。3分半テンポが緩まず、エンディングまで一気に駆け抜けるこの曲のように、霧が出ようが雨が降ろうが歩けるところまで歩いて去る時はスパッと去りたいなというのが僕の偽らざる今の気分であり、それまではこの終わらなさそうな道をひたすらに、かついつ終わっても良いように一歩一歩丁寧に歩き続けることが僕に出来ることなのだろうと、今のところは考えている。

そんなわけで、僕は今日も歩くのだ。

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