樹
男は思った
自分はきっと幸せになることは二度とないのだと
男は考えていた
どうして自分はこうも不幸になるのだろうかと
竹が水を吸う音がし、
風が草木を鳴らした
いつの間にか迷い込んだ森の中で
男は生きることに疲れていた。
男は、
ろくに家にも帰ってこないような父と
男とどこかへ消えてしまった母との
ほとんどない幼少期を思い出していた。
家でただただ待っていた。
誰も帰ってこないかもしれない
玄関を見つめながら
こんな時に母が抱きしめてくれたらいいのに
こんな時に父が頭を撫でてくれればいいのに
なんて想像の世界に逃避して
幼少期を過ごしたものだ。
しかしそれは現実に有り得ることではなく
笑顔を忘れていった。
あの頃の私はきっともう無邪気な少年ではなく
疲れ果てた老人のようだった。
たまに開かれる玄関は
父が生活費を持ってくる時だけだった。
そして父は足早にドアをガチャりと閉めていなくなるのだ。
そんな父も私が大きくなる前にパタリとそのドアを開くことが無くなった。
いや、もはや多くは語るまい。
こんな話はこのご時世ゴロゴロ転がっているのだから。
悲劇の主人公になるつもりは無い
ただ何故こうも普通に愛されなかったのか
普通に家族で居られなかったのか
それが不幸に思えて仕方がないのだ。
そして私は決して2人のようにはならないのだと
誓うのだ。
そんな私も大人になり
彼女と出会う。
私の人生で最も幸せな瞬間であった。
大人しくも明るい彼女に
私は笑顔を隠せなかった。
彼女はひまわりのような女性だった
彼女が歩けば周りがぱっと華やぐ
私には勿体ないほどの女性だった。
そんな彼女と結婚し、自分が10月10日後父になるのだと分かった
私はこの上なく幸せだった。
だがそれもつかの間だった
彼女は体調を崩し
運悪く合併症を起こし呆気なくこの世を去った。
死ぬはずのないような病気で
まさか2人とも失うとは
男は自分を恨んだ
自分が不幸な男が故に
自分のせいで死んでしまったのだと。
男は泣いた。
男は泣いて泣いて泣いて泣いて
涙はいつまでたっても止まらなかった。
男はみるみるうちにやせ細り
もはや人影を無くしていた。
私が一体何をしたというのであろうか
何故こうも幸せを奪っていくのだろうか
幸せになってはいけないのだろうか…
いく日もすぎ
男は生きることに疲れていた
男は気づくと森の中にいた
きっと人生を終わりにするつもりなのであろう
男はフラフラと歩きながら
葉がもうほとんどない老樹の下に立っていた。
最後を締めくくるなら
立派な大樹のような木が良かったのだが
なぜだか引き寄せられたようだ
男は老樹の下に腰かけ
妻のことを思い出していた。
ふと気づくと誰かに呼ばれた声がした。
当たりを見渡すが誰もいない
男はついに自分がおかしくなったのだと
確信した。
''男よ、なぜこんな寂しい場所へ来た"
空耳ではないようだ
男は声の主を探した。
「誰なんだ…」
よく聞けば鳥のさえずり1つ聞こえず
風が草木を揺らす音ひとつも聞こえなかった。
だが男には恐怖は無かった。
"何をしにこの森へ入ったのだ"
男は老樹の周りをぐるりと周り辺りを見渡した
どうやら目の前の老樹が話しているらしい。
どうも非現実的だ
「あなたは誰だ?」
老樹は葉もない枝を震わせたように見えた。
"私はもうじき枯れてなくなる。
ほんとうの終わりが来るのだ。
どうか私の最後の願いを聞いて欲しい。"
「私も人生を終わりにするためにここに来た。
なにかしてあげられるようなことは無いが
せめて話を聞くだけならできる。」
"話を聞いてくれるだけで構わない
それだけで私は私の人生が無駄ではなかったと思えるのだ。"
男は老樹の目の前に座った。
男にはもはや老樹が話しかけていることすら
おかしいとは思えていなかった。
〝旅人よ、私の話に耳を傾けてもらい感謝する。
私にはもう時間がないのだ。
実際に見て欲しい
この老いて今にも折れそうな枝、
葉も芽吹くことなく
中身はボロボロで今にも倒れそうなこの老樹を……
そなたにあったのもこれはきっと
運命なのだと思いたいのだ。
だからどうか最後まで私の話を聞いてもらいたい。
この老樹の最後の願いを。〟
男はただ頷いた。
老樹はそれに納得したのか
ぽつりぽつりと話し出した。
〝私がまだ人だった時の話だ
私はな、とても頭が良く
運動能力も優れ
誰かになにをやらされても必ず1番をとってみせた。
いやなに、自慢ではない。
負けるのが嫌なのだ。
人より何倍もの努力を重ね
同じ歳の子が遊ぶ時間に私だけ
机に向かい勉学に励んだものだよ。
だからなのか友達は一人もいなかった。
どれだけ凄い成績を収めても
どれだけ強くなったとしても
先生は褒めてくれど
友達は寄ってこなかった。
今ならわかるが
私は大事なことを学び損ねた…
友と親しみ
愛するものと触れ合い
家族と分かち合う
私はそれらを知らなんだ
いくら勉学や運動が出来ても
人との接し方が分からなんだ
そんなで上手くいくわけがないのに
そんな私も成長し大人になると最愛の人があらわれた。
子供にも恵まれ仕事もやる気がさらに出て守るために必死に努力した。
あの頃は幸せだった……
いやだが自分の性格が仇を生したんだ。
どんな人生でも上を見ればキリがない
私は欲をかいた。
もっと稼ぎもっと幸せに、
もっと上を目指し努力を
そんなことをしていたらいつの間にか家に帰らない日々が続いたんだ。
面白いくらい稼げた。
私は会社を立ち上げ自立までした。
周りが見たらごまをする連中の中で
捨てる捨てない
できる出来ないの駆け引きと
金の渦に飲み込まれていった。
いつしか妻が消えた
子供には懐かれず下から見上げるだけの
恨めしそうな目で見上げられた。
お前のせいだと言われているような気がして
私はいつしか帰らなくなった。
そんなことに気づいた時から自分が壊れていった。
飲まなかった酒にも手を出し
寂しさがゆえ夜な夜な街をさまよった
道を間違えていたんだと気づいた時には何もかもが無くなっていた。
何をしてもダメな時はダメなんだ
全てを手にしたと思っていたが
私自身のせいで全てを失ったのだ
そんな時私もそなたのように
この森に引き寄せられた
立派な新樹ではなく
老樹の傍により老樹に話しかけられた
老樹は同じように話してくれた…''
老樹は寂しそうに幹をふるわせ
感傷に浸っているようだった
男はただ静かに耳を傾け
なにも話すことは無かった。
〝これは、罰なのだと。
その時老樹は語っていた。
なに、
生まれてしまった罰では無い
欲をかいた罰でもない
家族をないがしろにした罰でもない
諦めてしまった罰でも
酒に溺れた罰でもない。
私は今になって思うのだ。
これは罰ではなくチャンスだったのではと。〟
男には何を言っているのか分かる気がした。
これに答えてはいけないのだと。
老樹から目を逸らし
揺れる地面の草木に目をやる
また風が吹き始めたようだ
鳥のさえずりがし
木漏れ日が揺れた
男はゆっくり立ち上がると
老樹に向かい
「もう少し、頑張ってみようかと思う
最後まで話を聞けなくて申し訳ない
帰らねばならんようだ。」
そういい背を向けた
その瞬間風がザワっと吹き
時間が止まったように音が止まった
老樹は何も答えなかった。
男は老樹を一瞥し
「そう思っている間は、
お互いた大樹にはなれそうにはないな…」
ぽつりと言うと元来た道を戻った
男は振り返らなかったが
老樹が悔しそうに軋む音は聞こえていた。
森は変わらず
風を跨ぎ
竹は水を吸う音がした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?