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【吐捨】穴もしくは壺⑦

世界には○○したくてもできない人がいる(だから○○しなさい)という言説。相手の資源や機会を奪っているのでなければ関係がない。

専門家と電話を繋いでおきながら、スタジオに招いておきながらタレントにコメントを求めるワイドショー

どれだけの練習量をこなしたかではなく、どれだけ上達したかを意識すべし。手段と目的の取り違え。


一般に謝罪の要求は、謝罪と言う行為そのものを求めているのではなくその先にある補償や反省を求めている。
謝ったのに許してもらえないと言う人間は、謝りさえすればいいという考え方、謝罪を目的とする捉え方に問題がある。

政治の追求の場においてはどうも目的が違うようだが……。


「有能」は能力があるということだと思っていたけれど、素直・人当たりがいいことを「有能」と表現するところもあるようだ。


個人の発言・主張と集団の発言・主張は性質が違う。
勝手にカテゴライズあるいはグループ化した結成・統率されていない集団から個人の発言を抜き出して、矛盾した発言をしているなどと言うのは無理がある。

弱者の味方であり"続ける"という主張をする者に気をつけよ。

弱者の味方であり続けるためには、弱者にい続けて貰わなくてはならない。
弱者を救済すればその課題における弱者=支持者を失ってしまう。一旦「弱者」を減らした上に次の課題に取り組んで利益等の都合から新たな敵を作るリスクを負うよりも、一切現状から進展させず弱者にい続けてもらう方がずっと楽なのだ。

そもそも「弱者の味方」という表現は何を意味するのだろうか。弱者に寄り添って境遇に同情するのも、弱者を率いて闘うのも同じ「味方」と呼べてしまう。
弱者を助ける気がなくとも「弱者の味方」を名乗ることができるのだ。

環境デモについて思うこと。
例えば化石燃料や化学製品について、資源に恵まれた環境にいて恩恵を十分に享受している人たちが豊かな生活に支えられてきた事実から目を背けてただただ規制・禁止を求めていいものか。
現在進行形で生活に苦しむ人々への救済をどうするか、将来にわたって生活していく手だてはあるのか、完璧でなくともある程度現実的なビジョンを持って主張し、また行動が伴っていればここまで邪険に扱われることはないはずなのだ。

前回の続きになるがミニマリストは「豊かな生活」を送っている人だからできるのだ。資源・物資が本当の意味で無い、生活に困窮する人にはそのような「贅沢」な選択をする余裕すらない。

環境保全や持続可能な社会の実現はもちろん取り組まなくてはならない課題であるものの、そのために途上国や貧困の立場にいる人々にさらに不便を強いていいのだろうか。自分よりずっと金持ちな人間だけが我慢すれば解決する問題だと安直な考え方をしていないだろうか。

マイノリティは他者への攻撃・侵害の免罪符ではない。
暴力革命を目指す者たちがいる。

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