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思考日記5日目

今日はヴィルヘルム・フォン・フンボルトの名言を取り上げる。

ドイツの言語学者、政治家で、弟に博物学者のアレクサンダー・フォン・フンボルトを持つ。

ヨーロッパの知識人にバスク語を普及したことで知られ、フンボルト大学の創設者である。
また、プロイセン王国政府の外交官を務めたことも歴史的に有名である。

今回は彼の言葉、

「たいていの人々は運命に過度の要求をすることによって自らの不満の種をつくっている」

こちらをピックアップする。

発言の経緯については例の如く分からないので、私なりにこの言葉を解釈してみることにする。

よく、「好きの反対は無関心」と小洒落たことを口にする者がいる。関心の有無がその人間に向けられた感情そのものであり、好感か嫌悪は二の次、とする考え方である。

人間関係は何かしらの依存があるものだ。

それは物理的な信頼、依存かもしれないし、いわゆる「心の支え」かもしれない。人それぞれだ。

明確にしておきたいのは、これが「嫌いな人」に対しても抱かれる「嫌悪の矛先」という依存が自然と生まれていること。

人間関係の先において、相手にはなにかしらの"要求"がある。

要求があるから「裏切り」がある。「裏目」といってもいい。なぜなら、いい裏切りもあるし、悪い裏切りもあるし、そもそも好きと嫌いが表裏一体と私は考えているから。

「裏目」が出れば、「要求」と異なる結果になるし、不満に感じる。人としてかなり自然な心の動きだ。

ヴィルヘルムが言ったのは、その「要求」が人の心に不満をもたらしている、ということ。

初めてこの言葉と出会った時はかなり明快にこの心の疼きが表現されており、私も感心した。

「運命」は、行動や自然がもたらすものだ。(と考えている)

それに、人は自分が出来ること以上の期待を自身に求めやすい造りになっているらしい。

だから、「要求」に対する「裏目」が出るし、だから不満になる。

しかし、人は心が何かに依存した状態を恒としているから、依存はやめられないし、「過度な要求」も絶やすことができない。

むしろ不満をどう解決するか考えた方が人間向きだとさえ思う。

ということで今回はこの言葉を

人は常に何かに依存しながら生きて、さまざまなコトやモノに過度に信頼を寄せ、それによって不満を感じることがある。しかし不満を解消する方法もまた存在するし、人は自然と解消できるモノやコトに依存している。だから心は均衡を保てる。

と、解釈して締めることにする。

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