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思考日記2日目

本日はキング牧師の言葉を取り上げる。

1929年生まれのキング牧師は39年の生涯の中、人種差別に非暴力で立ち向かったアメリカの公民権運動を語る上で欠かせない論者、牧師である。

そんな彼の発言から今回ピックアップするのは

「人の真価がわかるのは喜びに包まれている瞬間ではなく、試練や論争に立ち向かうときに示す態度である」

という言葉。

戦う姿勢を崩さないながらも、非暴力を貫いた彼の人生においては人格が表れた言葉であると
私は初見で捉えた。

その上で、私の状況に落とし込みつつ解釈をしてみる。

私の大学受験に対する態度を「試練や論争に立ち向かうときに示す態度」としてみる。

すると、毎日読書をし、生活リズムを安定させ、小論文や論説文読解に一切の妥協を許さず、ある種の「痛いヤツ」レベルに集中、のめり込み、自身に酔い戦った期間は自分の人格が現れていたことになる。

これはおそらく受験当日にも顕著に表れていたことだろう。

自分の中には「ネガティブ」と「ポジティブ」と「ストイック」と「プアー」がいると思っている。

これは詳しく言うと、
「何につけ文句をつけるところを探したい、批判や中傷ばかりで食わず嫌いな自分」
「物事を幸福度というものさしで測り、より楽しい、明るい生き方を模索する自分」
「周りの目を気にすることなく、没頭、集中できる最強(だと自分を信じ込める)の状態の自分」
「周囲の目を気にし、怯え、遠慮して自分の殻にこもり保身と気を使うことにばかり精力を注ぐ貧弱な心の自分」
というものである。

私の中から嫌でも離れないし、私以外の誰しもこれに近しいマインドを心に持っていると思っている。

人によってはこれらのバランスも違うしそれぞれの補正値の振れ方や変わりやすさもそれぞれあり、それが人格形成の要素の一つになっていると思う。

今回のキング牧師の言葉に当てはめて考えてみると、

集中、没頭して戦える状態はやはり、その人格の「最強の状態」が表れているわけで、それが人格の真価を見せている

と捉えることができる。

逆に、

物事を幸福度というものさしで測っている状態において、幸福感や楽しさを感じている時は、
「本当に楽しいとき」と「自分を騙し騙し生きているとき」が混在するから、自分の中の人格の真価が霞んで見える。

しかし、人格の真価を問うことだけがキング牧師の言葉の真意ではないと考えたい。

そして、ここで新たな視点として

真価が見えた先

を考えてみる。
よく、人格のあるものは人望が厚く、周りに慕われ身の回りにも恵まれる、という考え方がなされる。

これは私も信じている考え方で、

どうにか人格をつけようと出来るだけ物事を論理的に処理して、「やりたいように好きなことをやる」と「目標に向かってやるべきこと」とのバランスを上手くとって日々を戦う、という生き方に憧れて色々私生活で試している。

言ってしまえばこの思考日記もその一環で、「自分をいかに人格のある人物に育てるか」という実験の一つとしてやっている。

そもそも、そんなことを考えなければ日記を2つも毎日noteに投稿したりしない。

話が逸れたが、人格の育て方に関わる話として解釈したい、というのが私の結論である。

良い人格、人としての真価を発揮したければ

日々を騙し騙し幸せに生きようとするのではなく、異と向き合い、時に戦い、立ち向かう。

そうしている時こそ、人としての真価が現れてくる。そして、その経験が良い人格を作り上げる。

という解釈で締めくくる。

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