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見えない壁がある
私とフェミニズムの間には見えない壁がある。
フェミニズムに共感を感じながらも、私はずっとそんなふうに思ってきた。
フェミニズムの中心的なイシューの一つに『男性が独占している特権を、女性も平等に手にするべき』というものがある。
女は男と同じ努力をしても評価されない。能力があっても認められにくい。出産や育児で一度キャリアが断絶すると復帰しにくい。女性の方が賃金が低く、非正規雇用率が高い……そんな不平等への怒りをフェミニストたちは盛んに論じる。もちろん何の異論もない。今まで多くの女性のチャンスが奪われてきたことは明らかだ。
女性が女性だという理由で低い地位に置かれることには私も反対だ。あらゆる人の努力は、正当な地位や賃金の形で報われるべきだ。
だけれど私にとってそれらは全て、壁の向こうの話だ。
私は女性であると同時に、ASDとADHDを持つ発達障害者で、うつ病を患った精神障害者だ。結婚も出産もしていないし、病気のためにフルタイムで働くことができず、社会参加にも限界がある。
たとえばフェミニズムがこの世界を変えて、能力のある女性たちが正当な地位や賃金を手にして幸せになっていくときも、私の立場や賃金は大して変わらないだろう。
女が男と同じように競争社会で戦えるルールがどんなに整ったとしても、私の場合は競争社会そのものに適応できないのが問題なのだから。
女の幸福の形が『結婚』から『社会的成功』に変わっても、どちらも手の届かないところに生った果実に変わりはないのだ。
「幸せになりたいのなら良い女になって結婚をしろ」よりも、「幸せになりたいのなら能力を発揮して働こう、そして賃金と社会的地位を獲得しよう」という方が理念としては良いのはわかるが、「性的魅力」も「労働能力」も、比較価値・相対価値であるのは同じだ。そこにはやはりヒエラルキーがあって、障害者の私はどちらにしろ最下層にいるしかないのだ。
『私は自分のパイを求めるだけであって人類を救いにきたわけじゃない』のキム・ジナはこう言う。
雇用差別、賃金差別をとっくに経験しているからこそ、女性にはますます専門性が切実な問題だ。単純労働と区別される専門性があってこそ、女性はキャリア断絶や年齢差別による低賃金の沼から自分を救うことができるのである。
性差別による非正規雇用・低賃金の問題は事実として「ある」。
そのことに疑いはないが、私自身が体験してきた非正規雇用や単純労働の問題は、性別の問題と言うよりは、この社会の能力主義・成果主義の問題だった。人の三倍努力しても、人並み以下の成果を上げることしかできない、そういう能力の不平等がまずあって、労働能力を比較評価される社会の中では、どんなにルールが変わろうとも、私たちは低賃金の沼から這い上がることはできないのだ。
「女性が輝ける社会」「女性が能力を発揮できる社会」が訪れたとして、私は女性でありながら、多分輝けもしないし、発揮できる能力もない。
そう思うと、フェミニズムが女性と呼んでいるのは、結局健常者の女性だけなのではないかと、いくばくかの悲しさを感じてしまう。
けれど、時々その見えない壁がなくなる瞬間もある。男性中心社会の慣習の中で言いたいことをずっと飲み込んで生きてきたことや、ただ生活しているだけで暴力や侮辱に遭わなければならないこと、それを自業自得だと思わなければならなかったこと、ヒールを履いてメイクをしなければ非常識扱いされること、夜道を安心して歩けないこと。自分が望んでもないのになぜだか「性的な存在」として存在しなくてはならなかったこと。男性社会の中で、ずっとなんとなく馬鹿にされてきたこと。そんな諸々への憤りなら、私も当事者として語ることができる。同じように傷付いてきた女性たちと同じように、怒ることができる。連帯を感じることができる。
フェミニズムの権威である上野千鶴子氏の言葉をそのまま理解するのなら、フェミニズムとは優秀な女性たちの世界を作るための思想ではないはずだ。
あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。
(平成31年度 東京大学学部入学式 祝辞より)
弱者が弱者のままで尊重される。これは障害者にとっての理想でもある。
私たちは強者になりたいわけではない。ただ尊重してほしい。人間として精一杯生きていることを馬鹿にされない尊厳と、出産や結婚、あるいは単身でいることの選択肢を不安なく選べる社会の仕組みがほしいだけなのだ。
この話に特に結論はない。noteを書きながら小一時間考えたぐらいで、まとまるわけもない話だ。ただ、こういうふうに思ったという率直な言葉をネットに放り投げておけば、誰かが拾ってくれるかもしれない。それを期待して、投稿しておこうと思う。
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