3 想像力という名の妄想力

想像と妄想ってどう違うの?と聞かれてきちんと答えられますか?
多くの人は何となく使い分けていると思いますが、想像より妄想のほうがちょっとネガティブなイメージを持つ人のほうが多いかと思います

想像とは、実際に体験してないことを思い描くこと、妄想とは根拠もなくあれこれと想像すること。被害妄想とかそういった形で使われるのでネガティブなイメージがあるのかもしれません。他にも、空想や夢想など、現実からかけはなれたことを多い描くことや幻想など現実にはないことをさも今起きているかのように感じることなど、たくさんの違いがあります。

わかりやすく言えば、大きな想像というカテゴリーのなかに、妄想とか空想とか、夢想とか幻想とかがあると思うとわかりやすいのではないかと思います。
そうして、例えば小説や漫画などはある意味、想像とも空想とも言えますし、アニメや映画をみて、もし魔法が使えたらと考えることは夢想とも幻想とも言えますし、そんな風に日本語は曖昧でだからこそ微妙なニュアンスがそこに含まれています。

さて、今回はなぜ想像力という妄想力なのかと言えば、妄想にはもうひとつの側面があります。先程チラッと触れたように、妄想には被害妄想のようにネガティブなイメージがありますよね?何がネガティブかと言えば、根拠がない妄想にも関わらず、それがさも本当であるかのように感じてしまう、確信してしまう事も含むからです。

そんなのはメンタルに問題がある人だけで自分には関係ないと考えている人も多いかと思いますが、そんなことはありません。人間誰しも多かれ少なかれ他人の事に関してはこの妄想状態で生きているのです。
例えばこんなことはありませんか?

あの人はいつも私に会うと嫌な顔をする。きっと私の事が嫌いだからに違いない
付き合った頃はすぐに返事が来ていたのに最近返信が遅いのはもう好きじゃなくなったからだ
最近連絡が取れないのはきっと浮気しているからに違いない

こういったことは誰しも日常生活において思ったり聞いたりしたことはあると思いますが、これらは全て【事実かどうか確認をしていない】にも関わらず、【そうだと断定している】事が多いでしょう?つまり妄想なんです。

もちろん、こういったことはほらやっぱり!!ということも多々あるとは思いますが、大抵の場合はそれが妄想から始まっていることもあるのです。

だからといって妄想が悪いわけではありません。
世の中はいろんな人がいますから、こうかもしれない、と考えることを思いやりの方向で使えばどうでしょう?
それは決め細やかな気遣いになることもありますし、予知とか直感として働くこともあるかもしれません。
つまり、妄想がよいとか悪いとかではなく、その使い方が大事なのです

例えば、誕生日プレゼントを選ぶとき、相手はきっと喜ぶだろうと思うものを選ぶと思います。だろう、という範囲の時は想像ですが、喜ぶに決まっているとか、絶対に喜ぶ!!と思ったとき、それはまだ現実ではないのですからある意味妄想です。

これを確信と呼ぶのか、妄想と呼ぶのかは自由ですが、あえて妄想というタイトルにしたのは、こういったよい方向で使われる妄想は問題ないのですが、ネガティブな方向で使われる妄想は人間関係においてトラブルのもとだからです。

こういった妄想は想像力がなければできません。つまりよくも悪くも妄想力がある人は、想像力があるということです。
そうして想像力は円滑な人間関係に欠かせない要素でもありますし、前回のところで話したように、多角的な視点を持つためにも必要な素養でもあります。

つまり、想像力、妄想力をうまく使うことができれば、円滑な人間関係を作ることができ、さらに自分のメンタルを安定させる楽な考え方をするためにも必要な能力なのです。

ところが、この想像力とか妄想力というものは養うことが難しいものでもあります。急に今日からできます!!みたいなものではないのです。
それは例えば、泳ぐのがうまくなりたいとか、走るのが早くなりたいとかそういったものと同じです。急にできるようになるには難しいのです。

ではどうしたらいいのかと言えば、筋トレと同じです
毎日妄想することです。
それは例えば、もし夢が叶うのなら、とか、100億円あったらとかそういったものでも構いませんし、好きなアニメや小説の主人公だったらどうするか、とかでも構いません。もし明日晴れたらどこにいこうかな、そういったことでも構いません。大事なことは楽しい妄想をすることです


楽しいことは続きます。続けば上手になります。そうして想像力を楽しいことに使う事が習慣になれば、誰かの事を考えることも、嫌なことについて考えることも想像力でポジティブな方向に持っていくことができます。ポジティブな方法は多角的な視点のところで話したようなやり方です。

そういったよい方向で使うことで、自分の心を軽くすることができます。
そうすると人は心に余裕ができます。
余裕ができると他人に優しくできます。
他人に優しくすると、大抵の場合は人に好かれます。

なんで大抵の場合なの?と疑問に思うかもしれません。
それは、純粋な優しさなのか、下心がある優しさなのかの違いです。
つまり、見返りありきの優しさに人は敏感です。
もしあなたが見返りがある人にしか優しくしない人に急に優しくされたらどう思いますか?ありがたいと思うよりも先に、何をたくらんでるの?と不安になるでしょう。

そうして実際には見返りを求めているのか、そうでないのかは実は自分でも気がついていない場合がほとんどです。ではその違いはどうやって自覚したらよいと思いますか?それはとても簡単です。

例えば、あなたは大事な人に、誕生日プレゼントを買ってきたとします。
相手はプレゼントを開けてそんなに喜びませんでした。
『ありがとう、でもこれ持ってるやつだ。』
そうしたとき反応は大きく分けて二つです。
ああ、持っていたのか、それは悪いことをしたな、とか、もっとりサーチすればよかったなぁ、などと感じるのか、
なんだよ、せっかくプレゼントしたのに、嘘でも喜ぶのが礼儀じゃないの?などと感じるのかです。

この時のキーワードは『のに』です。
プレゼントしたのに、頑張ったのに、信じていたのに、、、、
いろんな『のに』がありますが、これは自分が求めていた見返りが得られなかったときに使う言葉なのです。

喜んでほしかったのに、(喜んでくれなかった)
頑張ったのに、(報われなかった)
信じていたのに、(裏切られた)
というのはつまり、そうして欲しかったという見返りを求めていたのです。
見返りというと言葉が強いですから、期待、希望といってもよいかもしれませんが、あえて強い言葉を使うのには理由があります。

基本的にはそんな約束はしていないからです。
プレゼントあげるけど、嘘でも喜んでくださいね、と約束してから渡す人は少ないでしょう。努力したら確実に報われると約束したわけでもありませんし、信じてくれたら裏切らないと契約したわけでもありません。ただそうあるべきだと勝手に期待して、勝手に失望したにすぎません。
つまり、自分の願いは叶えられて当然と妄想してしまったのです。

もし契約していたのに裏切られたのなら、損害賠償や契約違反の規約を適用すればよいだけです。ですが、そんなことをいちいちする人はいませんよね?
そこにあるのは、その人に対する個人的な信用です。
人間はこの信用のもとに様々なことが成り立っています。
いちいち約束や契約をしていないけれど、そうするだろうという期待のことです。

例えば、恋人同士なのだから浮気をするわけがない、というのは相手に対する信用です。ところが相手が、そんな契約はしていないから浮気したとか、寂しくて浮気したとかどんな理由であれ、浮気された場合、信じていたのに、と思っても当然です。そこには裏切らないで欲しいという期待があっても当然ですし、それ自体が悪いわけではありません。
ただ、そこには裏切らないで欲しいという期待が、そうなるに決まっているという妄想に変わってしまっただけです。

この妄想に変わってしまった期待が厄介なのです。
相手はこうあるべきだという強い期待は時に、相手に対する尊敬や何をしても良いかのような免罪符として作用してしまうときがあるのです。

例えば、恋人なのだから裏切るわけがないと、性別に関係なく、暴言や暴力とまではいかなくても、激しい束縛や、多すぎる記念日の強要など、相手がどう感じるかではなく、恋人なのだから当然といった配慮の無さは当然不信感や心が離れる原因になります。逆に相手が信じているからこのくらいは良いだろう、相手は自分を愛しているからわかれるわけがないと妄想して相手の信用を逆手にとって浮気をする人も性別に関係なくいるでしょう。

相手に対する期待が妄想に変わるとき、男女関係なく、それは行き過ぎた行動となって暴走することになります。
そうして、失った信用は回復させることは容易ではありません。

例えばそれは企業でも同じです。
ネットショッピングやお取り寄せなどで詐欺のような商品を送りつけた時、多くの消費者はもう二度と買わないでしょう。つまり信用がなくなったからです。
そうしてそのまま潰れてしまう会社も多くあります。

つまり、相手の信用にあぐらをかいて、このくらいなら大丈夫だろうと妄想してしまえば、信用は簡単に壊れてしまいますし、それを回復させることは大変難しいことなのです。

大事なことは妄想を正しく使うことです。
それを相手の幸せのために使うのか、自分のために使うのかが大きな分かれ目です。

と伝えるとまた、都合よくとらえたり、歪んだ捉え方をする人が出てしまいますから補正します。自分の事をないがしろにして相手のためを第一にしろといっていると勘違いする人が出て来ます。
こういった勘違いをする人はどこかで自分が相手に対する配慮に欠けていると自覚しているから怒りの感情が沸いてきてしまうのです。
私が言いたいことはこんな風に例えることができます。

あなたは本当は和食が食べたいと思っていました。少し胃の調子が悪いからです。ところが相手は今日はこってりしたものが食べたいから中華がよいと言っていたとします。こんなとき、自分の気持ちを第一にする人は、
和食一択!!胃が悪いんだから自分の意見が優先されて当然!!
と主張します。
相手の気持ちを優先する人は、胃が痛いのを我慢して中華を食べに行き、余計胃を悪くしてしまうでしょう。
私はそのどちらも推奨していません。
これはどちらも妄想力の悪い使い方をしているからです。

私ならこうします。
私は胃が悪いから和食がよいけれど、あなたはこってりした中華が食べたいと思っているのなら、どちらもおいてあるファミレスに行きませんか?
とか、
フードコートやデリバリーを提案するかもしれませんし、和食でも中華でもなくサラダのさっぱりとピザのこってりがあるイタリアンに行くことを提案するかもしれません。

どっちに傾いてもよくありません。自分の事を大事にするように相手の事も大事にするし、相手の事を大事にするように、自分の事を大事にする。
たったそれだけのことなのです。

たったそれだけのことが難しく感じてしまう人がいたり、自分が悪く言われたと勘違いして怒ってしまう人がいたり、できないと感じて悲しんでしまう人がいるのを知っています。でもどのケースもそのやり方を知らないだけなのです。

こんな風に人は誰しも、多かれ少なかれ妄想のなかで生きています。
それは人間ですから主観的である以上、仕方がないことです。
このことを仏教では色即是空、空即是色といいます。
簡単にわかりやすくざっくり言えば、

この世の全ては妄想だよ、でもその妄想が現実でもあるんだよね


ということです。

そうして仏教ではこの妄想状態から完全に抜ける方法は悟るしかないと解いていますが、私は別に完全に抜けなくても良いと思います。ただ、自分も相手も周囲の人もハッピーならそれが妄想でも幻想でも、空想でも良いと思います。

じゃあ、今のままでいいのね!!と都合よく解釈する人もいますがそうでもありません。自分も相手も周囲もハッピーであることが条件です。
自分が不幸でも、相手が不幸でも、周囲が不幸でもダメです。

ただそう伝えても、大丈夫ですといいきる人もいます。
そういう人は本当に大丈夫な人と、相手や周囲の不満に気がついていない人といます。この見分け方は簡単です。

あなたは『のに』といっていませんか?
相手はあなたに親切ですか?
周囲はあなたに親切ですか?
人間関係のトラブルや不満はありませんか?

全部イエスなら本当に大丈夫な人です。
もし万が一勘違いしていたとしたら気がついたときに直すしかありません。
基本的に大丈夫なのだから気にすることはありません。
そのまま想像力をよい方向で使っていってください。

自分は妄想力を間違えた方向で使っていることが多いなあと思ったら、正しい方向で使うように軌道修正したらいいだけです。
それはすぐにできることではありません。
例えばあなたが、『のに』と使ってしまった度に、『あ!!』と思って軌道修正すればいいのです。

そうやって、妄想から1個ずつ完全に抜け出せたとき、気がついたら仏陀のように目覚めた人になっているかもしれません。

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