病気とか障害についての話

以前にも書いたけれど、また思うところがあったので再投稿です。過去の記事はいろいろと迷走していた時期なのでまた違った形にできるたと思います

私には障害がいくつもあります。

例えば、症状やIQの差などから発達障害が疑われると思います。(詳細は後記)

過去のエピソードやWAIS3の結果を見るとギフテッドの2型に該当するのではと思いますが医者ではないのでよくわかりません。

国語は得意だけど数学は苦手、のように誰しも得手不得手はあると思いますが、ある特定の分野のIQの差が10から15あると発達障害といわれます。ですがすべての項目が平均の100以上の場合、日常生活において本人が不自由を感じているかどうかもその判断基準にされる様です。
私は自分が不得意な分野に関してはほかの得意な分野で補う事が出来たので自分がそうであるという事には気が付かないで居ました。

私は人の顔と名前を覚えることが苦手です。歴史の人物の顔と名前が覚えられないなどは多くの人が、『私も苦手だった!』と言うでしょう。
クラスメイトの顔も名前も覚えるのが苦手と言っても、職場の人の名前と顔が覚えられないといっても多くの人がこう言いました。『私もそうだし、皆もそう。特に年を取ったら余計ね!』だから私は自分がおかしいことに気が付きませんでした。

ですが、私は自分の家族がいるはずもないところでばったり会っても気が付きません。家族ですらそうなのですから、職場の人間などはもっとわかりません。するとこう言われます。

『昨日街で彼女に会ったけど挨拶もしないで素通りした、なんて礼儀知らずなのか。意図的に無視したとしか思えない』

そうするといじめにあうこともあります。どんなに私が覚えられないといっても職場内では普通に接しているから嘘だと思われるのです。

職場では大体みんな毎日同じアイテム(私物)を身に着けています。上履きのスニーカー、エプロンのキャラ、眼鏡の色など。

私はそういった物で見分けているだけなのです。職場でこれを持っている人は○○さん、それだけなので違う物なら見分けられるかはわかりません。例えば、昨日までは縞々の眼鏡でも、今日は普通の黒メガネになれば私にはその人だと特定することは難しくなるのです。そうしてすぐに忘れてしまうのも特徴です。

でも皆がこう言います。『顔と名前が覚えられない?そんなのは普通だけど、皆が必要だからしっかりと覚えているのにあなたは怠けている、私達の事に興味がないからそうなのだ、物か何かと思っているの?!』と感情をあらわにします。

どの程度なのかと聞かれることはありません。だから自分から、小学校6年間で覚えられた人は一人だけ、町で家族に会ってもわからなかった。といっても、でも家族は見分けられるのなら障害ではないのだから甘えるな、と言うのです

そうなのかな?と思ったときもあるのですが、よく考えたら接している時間が違うのですからそんなはずないのです。家族は毎日のように何十年と接してきたのに数か月や数年の、しかも職場で数時間会うだけの人とは違うのは当然ですがそんなことは関係ないようで、それを伝えたところで『言い訳するな、屁理屈をこねるな』と言われるだけです。
どこが理屈になっていないのかまったくわからないけど、自分の意見に背けば屁理屈を言うなというのは水戸黄門の印籠のように思っているのでしょう。どこが理屈にかなっていないのか、私はほかの人と違う考え方で常識がないのだろうか?と悩んだこともありますが、負け惜しみだと教えてくれた人によってその事に悩む事もなくなりました。

確かに他人の顔を全く見分けることができないわけではないのですが、例えるならこうです。

友人の家にトイプードルを10匹飼っている人が居たとします。

この子はトイちゃん、こっちの子はプーちゃん、こっちの子はドルちゃんで、、、と名前を言われてすぐに10匹を見分けろと言われている感覚に近いのです。

黒い子は3匹、茶色の子が4匹、白い子が3匹居て、トイちゃんは、、、何色の子だっけ?白だとしてどの子?1/3の確立だな!みたいな感覚です。

この人は事務の人、この人は同じ部署の人、そういった分類は名前と顔を覚えるより比較的すぐにできます。で、顔と名前?時間をかけなければわかりません。

10匹飼っている人は飼い主だからずっと一緒に暮らしていて当然見分けるるからと、友人がすぐに見分ける事ができないように、私にとっては人の名前と顔を覚える事は苦手なのです。そうして仮に覚えても、その友人に会わなくなれば当然その10匹の犬の見分けもできなくなるように私は疎遠になれば顔と名前を忘れてしまいます。それを怠惰といわれたらそうなのかもしれませんが。

また、例えば町で脱走した友人の犬が一匹で歩いてたとしたときに、友人の犬のトイちゃんだ!とすぐにわかる人はいったいどのくらいいるでしょう。大抵は犬がいるとしか思わないように、私はそれが職場の○○さんだと認識するのは苦手です。

でも私は、工夫することで人より時間と努力が必要ですが何とか覚えることができます。

でもどうしようもないこともあります。例えばそれは計算です。計算が苦手といわれても多くの人が私も!と言うでしょう。

どのくらい苦手か聞く人はほぼいません。いるとしたら私と同じように苦しい思いをしたことのある人だけです。実際これを読んでいて、どの程度?と思ったでしょうか?

私は九九がいえません。そもそも覚えられないのです。小学校の時は教師からのいじめにあっていたので、自作の歌にしたり、呪文のように何度もつぶやいて必死にテストに出る所だけを対処しました。というよりも、例えば7の段なら順番に7づつ足して答えていたように記憶しています。試験に受からなければ教師からみんなの前で馬鹿にされた挙句、家に帰れば九九が言えなかったと親に暴言と共に何度も殴られるからです。足してさも覚えているように演じる。そんな付け焼刃でクリアした九九を今も覚えているかといわれたら無理でも仕方ないと思います。そうして、計算ができなくても今はスマホの計算機があるのでいつでも対策はできるから余計にしていないのもあります。

このほかにも私は障害があります。音に関すること、人に関すること、あれもこれもと実例を出して書けばいつ終わるのだろうという程ありますが、多くはそれで誰かを不愉快にして、結果いじめにあったり、トラブルを生じて初めて自覚するのです。

そういったトラブルをあいつのせいだ、いじめる方が悪いと言ったところで理解されるわけでもないですし、問題がなくなるわけではありません。例えば職場でいじめる方が悪いと断罪しても、代わりに来た新しい人や自分が転職すればまた同じ問題が起きやすくなります。

だから私は自分が治す、もしくは自分が対処する方が結果的に解決は早いと判断しています。こういった事は、被害者が悪いと言っているのではありません、とわざわざ言わねばならぬほどに勘違いと決めつけで悪者にされますがそうではないです。

懇切丁寧に説明したところで基本的に人間は同じような体験がなければ、表面的な理解や、一時的な同情を得ることはあっても長期で見れば全く何も理解も対処も得られない事の方が多いからです。

名前と顔が一致しないならアイテムで見分ける、計算が苦手なら計算機を使う、苦手な音があればその場を離れるなど、いつも対処してきましたし、それは有効でした。
悩んで相談しても【みんなそうだから!】というのですから、それを障害と認識していませんでした。
誰でも皆家族の顔は街中では認識できず、九九は言えないし、クチャラーは誰だって嫌だし、皆そうだと思っていたのです。
ここまで言えば大抵の人はそこまでとは思わなかったという言葉と同時に、あなたは異常だから病院に行って来いというのです。いやもう、診断は受けてますけどねと遠い目で今は思うだけです。理解の無い人に何を言っても無駄ですから。

でもSNSを見ると私と同じようなことで悩んでいたり、苦しんでいる人がたくさんいます。

そういった人たちの多くが私は○○という障害があるから生きにくいのだ、周りはもっと理解してほしい、といっています。

それは【正しくその通り】だと思います。

ですが、だからといって障害を持つ人たちが【努力しなくてよいわけではありません】。

理解してくれない方が悪い、許容しない方が悪い、といいますが、それならば理解しないというか、理解できないという人たちがいるという事も許容すべきです。障害を理解できない心の障害を持っていると考えるべきで、そういった【障害を理解できないという障害】を持つ人たちが悪いといっているあなたもまた彼らと同じなのではないでしょうか?

そうして、障害だからという事を免罪符にして何も努力しない人たちのせいで、【障害は甘え】と言い出す人たちも出てきているのだと感じています。そうしてその努力しない人たちの多くは、実際には障害ではないのに、ネット上の簡易診断を受けていくつか該当するからそうなのだという思い込みによる障碍者のふりをしている人たちのせいでもあると感じています。

私はネット診断でそういった障害がある可能性が高いと出た、この診断のうち何個も当てはまったから私は障碍者だ!というのが彼らの言い分です。
ネット上の簡易診断の中には必ず、疑いがあるので実際に病院で診断を受けてくださいと書いてあるにもかかわらずです。(ちなみに誤解の無いように伝えておきますと、私の場合WAIS3診断の結果、すべての分野のIQが平均値以上だったため、あなたが日常生活で不自由や苦痛を感じている場合は発達障害といってもよいが、対処できているのなら気にしない方が良いといわれています。)

そうして自己診断の彼らはこう言います。
障害があるのだから理解すべきだ、つまりは、私に優しくしなさいよ、と強要しているのです。
できなくても仕方がないからこういう対処をしてほしい、ではなく、できなくても仕方がないからそんなこと頼む方が悪いし、無条件で私を受け入れない方が悪いと。実際に診断を受けていないにもかかわらず、都合の悪い時だけそう言うのです。

その多くは実際には障害でも何でもないのです。なりきり障碍者つまりは、障碍者を演じているだけなので本当に障害のある人とは違い、できるときもあるし、何なら気にしない時すらありますが、それを指摘しても調子が良い時と悪い時で違うのだと言い訳をします。
確かにそういった側面も、特にメンタル的なものにはあると思いますが、そういった偽障碍者のせいで実際の障害を持つ人たちが【甘え】という言葉でより生きにくくなっていることを知ってほしいです。

実際に障害を持つ人たちは皆一様に生きにくさに対して真剣に思い悩むので必ず医師の診断を受けています。あなたはおかしいと言われ、普通ではない、異常だ、と差別を受けるのですから当然の事です。そうして診断を受け病名が付くことである種の安堵すら覚えます。それほどまでに周囲は追い詰めるからです。だからこそ、病名がつくことで、自分だけではない、治療法があるのかもしれない、仕方がないことなのだ、と安堵するのです。

病名があるという事は私だけではないのだ。病名があるという事は治療法や対処法があるだろう、もうこの事で悩まなくてもよくなるのかもしれない。少なくとも私はそう感じました。ですから積極的に診断を受けようとしますが、フェイクの人たちは違います。病院に行き、なんでもないですね、といわれてしまえばもう、障碍者だからという免罪符が使えなくなるからです。
そういった人たちの障碍者だから優しくしろ、理解しろ!という言葉は結果障害を持つ人たちを苦しめています。

こんなことを言うと障碍者に鞭を打つようなことを言うなとか、被害者が悪だと言うなんて!という本質を理解できない人が出てきますが、そうではありません。障碍者が悪などとはどこにも書いていないのになぜそういった理解になるか不思議です。が、それもまた個性なので否定はしません。ですが勝手な思い込みによってその悪意を向けられるのは不愉快です。本質はそこではなく、いかに障害があっても楽しく不自由を感じないように生きることができるのかです。私が不愉快だからお前が正せというのは、障害があるからといって意地悪をする人たちと何も変わりません。だから私はそういった人たちがいる事を認識し、そういった考えもあると許容しますが、そういった人たちの悪意にまで許容する必要はないと考えています。

私はいつもこう考えています。障害が全くない人がもし仮にいるとしたら、その人こそが障碍者なのではないだろうかと。

そもそも障害とは、みんなの平均値もしくは多数派が普通とされていることができない、もしくは身体機能の一部が欠損している人の事を指していると思っています。

例えば目が見えなくても幸せに生きていて杖などを使い対処して何も不自由を感じていない人が居たとしても、目が見えないというだけで障碍者です。多くの人が見えるのにその人は見えないからです。つまり少数派だからです。

それは見えていて当然だという概念から来ています。見えているのが普通なのにこの人は見えないから不自由しているだろうという決めつけと、だからきっと不幸なのだろうという傲慢から来ていると考えています。そうして目が見えていないなんてかわいそうという見下しがあるように感じています。目が見えているのに不幸な人はいっぱいいるのですからそう考えてもおかしくはないかもしれませんし、実際に目が見えない事で不幸だと感じている人もいるでしょう。だからと言って全ての人がそうではないのにです。

もちろん、例えばと伝えた通り目が見えない人に限ったことではなく、身体的、精神的な障害を持つ人にもこういった事は起きていると感じています。

五体満足で、メンタル的に問題がない、いわゆるWHOが定義する健康な状態であったとしても、人生はうまくいくとは限りませんし、思い通りにいかない事ばかりです。そうして誰しもトラウマとまではいかなくても、それなりに心の傷は抱えています。その傷の大小や数は人によって違いますが、それでも心の傷を一つも持たない人の方が圧倒的に異常だとおもう程少ないはずです。だって、みんなの多数派が普通なのですから。

だから、私は言います。障害も個性なのだと。私は髪が天パーです、という人たちがいて、その中でも天パーの強さの具合が違う様に、障害だって強く出る人もいれば弱く出ている人が居ます。

例えば癌のように放っておけば死んでしまう体の病気があるように、放っておけば死んでしまう心の病もあります。生まれたときは何ともなくても、事故や病気などで体が思う様に動かなくなったり、失ってしまう事もあるように、生まれたときはできていても心の病でそれができなくなってしまう事もあります。生まれつき体に不自由がある人のように、生まれつき脳の機能障害などで心の病を抱えている人もいます。みんなそれぞれですし、そうして後天的なものは全て明日は我が身なのです。

みんながそう考えれば、天パーだから私は障碍者だという人が居ないように、(だって多く人は天パーではないのですから!)そういった特性があるから薬を飲んでいるとか、リハビリしているとか、逆上がりができないとかそれと同じように、ただできない、苦手、それだけの普通の事になると思っています。

だから、口では障碍者に優しく!差別はいけないよ!といっても偽善にしか思えませんし、そういった人たちの言動には矛盾があります。先もいったように、例えば障碍者も努力すべきといったら本質を無視して非難する人たちがそうです。もちろん、まったく理解しようともしない人たちよりもましですが、それは偽善にしか見えません。下心があるからです。例えば優しくされたい、よい人と思われたい、お金がもらえるなどです。

本当に理解ある人たちは、例えば自分も同じように障害がある人だったり、そういった人が自分の愛する人にいたり、自分も事故や病気になってそういう事になるかもしれないと想像力をきちんと持っている人たちです。そういった人たちの言葉には愛があります。だから心に響きます。障碍者といって、【かわいそうな人たち】と分類わけして見下したり、変に同情せずにきちんと同じ人一個人として向き合ってくれるからです。

そんなことわかるのか!お前の妄想だろう!と食って掛かる人が居ますが、そんなことはありません。例えば、出会うたびに顔ではなく胸や尻を見てくる人達にセクハラだと感じない人はいないでしょうが、言葉や実際に触るなどの行動に移していないから本当に見ていたかわらないだろう、お前の妄想だ!と言われるのと似ています。
馬鹿といわれたときに、それが愛のある馬鹿なのか、心から見下している馬鹿なのかは冗談のように言ったとしても多くの人が見分けられるように、その言葉に愛があるのかどうかは本来多くの人が見分けられるのです。

でも、障害がある場合は少し話が違うこともあります。人の悪意に慣れすぎている時もあるからです。私のように悪意にさらされる事が多くなると、善意すらも下心があるのでは?と時に疑ってしまいます。だから理解されないといじけたこともあります。でもいじけたところで何の解決にもなりませんし、できるようになるわけでもないのです。

もちろん、周囲に自分はこういう特性があるので知っておいてほしいと何度もアピールする事もまた大事です。想像力のある人や自分も似たような体験がある人はそれで理解してくれるからです。そうして何度もアピールするのはすぐ忘れてしまうからです。例えば私が最初の方で述べた私のできない事を今ここまで読んでいる人たちの中に、いったいどのくらいの人が何個覚えているかというのと同じです。これも対処の一つです。

そうして、できないから!と言い放つのではなく、できないからどうしてほしいと伝えることが大事です。

私は理解が得られないからほとんどを自分一人で対処するしかありませんでしたが、例えば、計算が苦手だから計算はほかの人に回してほしいと頼むのでもいいのです。

初めて職場で理解が得られたと感じたときは、私の為にみんながネームプレートを付けてくれることになりました。この時はとてもうれしかったです。私はここでも当然理解が得られないだろうと決めつけて、名前が覚えられないのでそれを周知し、半年、いや3か月、名前と顔を一居させる時間を欲しい、と伝えたところ、上司がネームプレートと、身につけるものをなるべく変えないようにと指示してくれました。

こんな事もあるのだと感動すら覚えたのを記憶しています。そのくらい理解がない所が多いのだと同時に痛感したものです。

本当に障害がある(と感じている)場合、それは日常の事なので常に同じ問題に直面します。

それを周囲のせいにしても何も解決しませんし、結果自分が苦しむ時間が長くなるだけです。環境によっては自分に障害があると伝える事すらできない人もいるでしょう。

そういう時代ではないと言ってもそれは綺麗ごとで実際に障害があるというだけで差別や人の悪意にさらされている人は痛感しているはずです。

だからこそ、【自分でできる事は何だろう?】と考えるよりほかありません。他力本願では解決に時間がかかり、その上自分の意図した方向に行くとは限らないからです。結果、時間がかかった挙句に全く見当違いのルールができてみんなが、そして自分自身も苦しむ事になることすらあります。

私はできない事を努力してやれと言っているのではありません。できないことは無理、でいいのですが、できないからといって許されるほど世の中は優しくないのもまた事実です。でもできない事をできますとか、何とかしますと安請け合いすることもまた正しい行動ではありません。

だからこそ、できない事はできる人に頼む、時に断る。一人でよい方法がわからなければ一緒に考えてくれる人に相談する、そういった頼る事もまた対処の一つです。

それは友人や知人である必要はありません。

医者や専門家、役所の人間でも構いませんし、私のような占い師や相談を受ける事を生業としている人たち(例えばカウンセラーやセラピストなど)でも構いません。自分の悩みがお金を払うことで解決するなら安いものだと思いますし、自分でお金を払うまでもない悩みだと思うのなら放置でよいと思います。占い師などの国家資格が不要な職業の場合は駆け出しの時や、勉強したての場合は無料で依頼を受け付けている人もいますので、お金を払うまでもない悩みだけど一応聞いてみようと思うならそういった所を利用してみるのも良いと思います。

本当に重い悩みだけど、お金がない人も世の中にはいます。そういった人たちは役所などに無料相談があるので利用すると良いと思います。ボランティア団体もあります。真剣な悩みならとにかく一人で思いつめない事が大事です。弱みに付け込まれたり、入信を迫られてたりお布施を要求され結果大金を払う事になってしまう事もあるのでお勧め度は極めて低いですが、どうしようもないのならお寺や教会など宗教系の人に頼るのも時にはありだと思います。

大事な事は、しっかりと自分を客観的に見つめて、できること、できない事、今何に苦しんでいて、何が解消されたら苦しくなくなるのかを感情ではない部分で見つめる事です。その為には、他人に相談したり、例えば全く同じ状況の友人が相談してきたらと、自分の状況を他人の相談としてとらえてみると少し主観的な部分が抜けますのでそういった方法もまた一つの手です。

自分が今何をどう感じ何が苦しいのか、嫌なのか、どうなりたいのかを感情のままに紙に書いてみるのも手です。そうして読み返してみると少し心が落ち着いて、ちょっとだけ客観的に見れるようになります。そういった手法もあります。

他の方法もありますし、やり方はたくさんありますが、どの方法でも気持ちの整理をし、物事を客観的に、感情を抜きにしたところで考える必要があります。例えるならこうです

なぜこの料理はうまくいかないのか!と感情的になって私はだめだとか、あいつにやらせたからだとか、そういった感情的な所で考えても料理が完成するわけでも上達するわけでもないように、悔しいとか悲しいとかそういった感情は抜きにして、どの工程までは良くて、どこで失敗したのかをまずは見極めることが大事です。
混ぜるところまでは成功していたから、きっと失敗は焼く所だ、では火加減をもう少し弱火からやってみよう、いや強火の方がいいのだろうか?焼く所と思っていたけど混ぜる所だった!そういった試行錯誤が料理を成功に導くように、自分の日常の苦痛を感じる部分に対してどこまではOKでどこからはNGだったのか、苦痛を感じないようにするためにどうしたらよいのかを考える事です。

こういった事を理屈ではわかっていても実際に実行することは難しいですし、常に完璧にできるわけでもありません。そうして人は失敗を恐れすぐにやめてしまいます。それは料理と同じです。うまくいかないとすぐにやめてしまう人もいますし、卵焼きが上手にできるからといってすべての料理ができるわけではないのと同じように問題が起きるたびにそれは繰り返さなければできませんし、毎回同じ方法が有効とも限りません。

でも例えば包丁さばきが上達すれば少なくとも食材を切ることには問題がなくなるように、この問題に対する解決方法を知っていたらほかに応用できる事もたくさんあります。

障害がある、だから何?それは私の一部であり、個性です。と言えたらそれはどんなに強いことかと私は思います。そうやって乗り越えたり試行錯誤した結果があるからこそ、同じ悩みを抱える別の誰かに寄り添って一緒に考える事ができるのだと思います。乗り越えていないのなら、一緒に悩むことはできます。

障害がある事をネガティブに考えるのではなく、だからこそできる事や、だからこその考え方、そういった試行錯誤すらも楽しむことができたらそれはとても素晴らしいことのように思います。私の考えは綺麗事という人もいるでしょう。あなたはできるからだという人もいます。私の努力も苦悩も知らないのにです。

でも私ごときでもできるのに、なぜあなたはやらないの?と思います。もし仮に、百歩譲って私が何かの部分において特別だとしても、それで楽になった人がここにいるのに、まず否定するのはなぜなのか、私は苦しいのは嫌なので、お金もかからずに楽になれる方法があるのならそれを試したいと思うからです。ほかに楽になれる方法があったり苦しいのが好きなら別ですが。

障碍者だから、という言葉は免罪符ではありません。
だからできなくても仕方ない、それは正しくそうでしょう。
でもなにもしなくてよい訳ではないのです。
何もしなくても明日はきますし、突然問題が解決するわけではないのです。もちろん、できない事による苦痛を甘んじて受け入れるのならそれでも良いです。

苦しいけど何もしたくないから理解しろ、というのは違うという事はわかると思います。それは、例えば事故で右手がなくなったから私が今まで右手でやっていた事全て他人がやるべきだ、だって障碍者だからね!といっているのと同じです。初めは同情してやってくれるかもしれませんが、そのうち左手が残っているでしょう?と多くの人が思うでしょう。綺麗事を並べても実害が出れば(少なくとも自分の時間を奪われたら)非難する、多くの人間とはそういうものですから。

それでもできない事は、リハビリを受けるとかそういった本人の努力と、できないからここはサポートしてほしいとできる人に頼るという事、そういったいろんな助けがあって初めて不便を感じることが少なくなるように、それは目に見えない障害(例えばメンタルや内蔵などの疾患)を持つ人たちも同じと思います。

できないから、理解してよね!と丸投げする人が多いからこそ、障碍者は甘えという言葉がより一層本当に苦しんでいる人たちの立場を悪くしています。私の見てきた中で本当に障害を持つ人たちはいつも見えない何かと戦っています。
それは世間の悪意ある目であったり、偽善からの好意に見せかけた利権であったり、あなた達はかわいそうなのよ、というマウントをとることで見下している人たちであったり、そういう人たちにはっきりと、【私は障碍者だけどかわいそうじゃありません、これは私の特性であって(そうしたくても)切り離すことができない私の一部です】と言える人がどのくらいいるでしょう。

そういった人たちの、あなたはかわいそうな障碍者だという嘘の言葉に、そうしなければいけないかのようにふるまう人が多いのです。
確かにその方が楽ですし、簡単です。心が疲れていればそうしてしまう事もあるでしょうし、そうする事が必要な時期もあります。
でも赤ん坊ではないのですからずっとやってもらうわけにもいきませんし、そうしてもらうのならそれなりの対価が必要です。お金があるのならお金を払えばよいですが、お金がないのならそれに見合うだけの何かを払わなければなりません。

人とは支えあう生き物です。と聞きますが、そんな事はありません。それは幻想です。支えあう生き物は人だけではないからです。チスイコウモリなどは、たくさん血を吸うことができた時、血を吸えなかった仲間に血を吐いて分け与えますし、それをしなかったコウモリは自分が飢えていた時にほかの仲間からもらえることが少なくなるそうです。そんなところも人間と同じと思いませんか?

ほかの動物でも大抵の生き物は人間も含めて、基本的に自分に利害があるかどうかです。理解して!といっても、そこに得がなければ動きません。人間は違うと思いたいですが、そうではないのが事実です。トイレットペーパーがなくなるかもしれないというデマの時にみんなが困るかもしれないからと買い占めなかった人はどのくらいいますか?災害時にそれは顕著です。

勿論そんな人だけではないのも事実ですが、そういう人が少ないのもまた事実です。私は障害があります。といっても多くの人にとっては関係ない話です。だからメリットがあるよ、と提示することも時に大事なのです。そうして、基本メリットがなければ多くの人は動かないと知っていることは自分の心を守ることにもなります。失望しなくてよいのですから。

世の中は多くの綺麗事という幻想がばらまかれています。そしてそれは現実ではないとはっきりと言う事はタブー視されています。そんな世の中は間違っていると誰しも思っているのに、それをきちんと正す方法は少ないですし、そもそも無理だとどこかで諦めてるからかもしれません。

それは、戦争がなくならない事や差別やハラスメントがなくならない事を見ても明らかです。でもそれをはっきり言えば、事実を言った方が非難されます。そういった事を見てみぬふりをするのではなく、現実として受け止めて、どうしたら?せめて自分の周囲だけでも快適にするには?そうやってみんなが自分の周囲だけでもと、もし世界中の人が思う事が出来たら、世界は簡単に一瞬で変わります。でも、差別や戦争があった方が得をする人たちがいるからそんな事は起こりません。

そういった人たちは必ず綺麗事をいいます。その方が受け入れられやすいからです。そうして最終的に一番弱い立場の人たちがその被害を受けます。それは差別されたり、ハラスメントを受けたり、ひどい時には命を奪われる時すらあります。だからこそ、障碍者だから弱者なのだというままではだめなのです。障碍者だけど人間です。逆上がりができない人が居るように、ちょっと苦手なことがあるだけです。料理ができない、掃除が苦手、いろんな苦手があるように、【私はこれが苦手ですが、これが苦手という人は障害とか病気とかそんな名前が医学的につけられています。】その程度の認識でよいと思います。それは歌が苦手な人が音痴といわれるのと一緒です。だから障害だと感じる必要は本来無いのです。

自ら障碍者を演じる必要もなければ、弱者になる必要もないのです。
ただそうそういう特質がある、ただそれだけ。
できない事はできる人や得意な人、仕事にしている人に頼む。これもまた当たり前の事。

その当たり前の事に、罪悪感や申し訳なさを感じる必要はないのです。なんなら、私はできない、だからたくさんお金をつかっているからあなた達健常者より世の中を回しているのよ!でよいと思います。実際にその為に多くの職業もあるのですから。

障碍者であることに、負い目も引け目も感じる事はないのです。そうして障害を演じる必要もありません。この障害はこういった特性もあると聞くと、今までできていたのに途端にできなくなる人もいます。それはやらなくてもいい、できなくても仕方がないから、と自分に言い訳できるからです。
そうではないはずです。できる事は自分でやる、できない事は誰かに任せる。そんなのは当然の事です。それは厳しくも何ともありません。
大人なら当然の事です。小さい子供なら理解できますが。

状態が悪化してできなくなったのと、甘えてできなくなったのでは違います。そこをまとめて、甘えといっているのではないです。でも本当はできるのに甘えてできないという人ばかりを目にすれば、できないのは甘えと考えてしまう事も理解できます。そうして実際に何も知らずに○○(病名)は甘えと言う人が一定数いることも事実です。

何でも利用しようとする人が居るのです。病気だから優しくしてね、という理由がないと他人に優しくしてもらえないと考えている人たちや、本来自分は甘えてはいけないが、病気だから今は仕方ないと自分に言い訳している人たち、病気だという事にするとお金がもらえるとか、そういった実利がある人たち。そういう人たちは障碍者は弱者でないと困るのです。

でも実際に障害があるけれどまっとうに生きている人たちはみんな言います。障碍者だからってバカにするな、障碍者だからって見下すな、私たちもあなた達と同じです。と。

100年以上昔は自分の障害を【売り】にして例えば見世物小屋で働くなど、倫理的な問題はさておき、そういったしたたかさも持っていました。そうしなければ生きていけなかったという側面もあると思います。

今の私たちにはそういったしたたかさ、漢字で書けば、強か(したたか)、つまり強さです。それが欠けているように思います。障碍者は弱者ではなく、強か(したたか)であるべきだ、強くあるべきだ、それが私の考えです。

体が弱いなら心、心が弱いなら体、どっちも弱いのなら知恵、頭を鍛えればいいのです。体も心も知恵もないなら性格で勝負です。ないものねだりをしても仕方ないのですから、自分で自分を補う方法を知れば、それでも無理な所は他人の助けが入りやすくなります。

人は、努力もしない癖にとすぐ言います。そうして目に見える努力を好みます。見えないところでいくら努力してもそれはしてないのと同じと判断します。他人は自分の知らない事や見えない事は存在しない事として受け止めますから。わかりやすく努力する事も時に必要なのです。こういった事はしたたかさ、に入ると思います。

私は障害があります。
障碍者手帳2級を持っていた時もあります。(今は持っていません)
日常に不便を感じる時も多々あります。
それを乗り越える対処法を持っています。
どうしようもない時は、国の支援を借りたりプロの人に相談もしました。
相談した上で断られたり、支援を得られないこともありました。それも人手が足りないとか、はっきりと面倒だと言われたことすらあります。だから行政の手を借りることすらできず一人で対処しなければならないときもありました。(今ならすぐにSNSで炎上ものです)
でも最初からできていた訳ではありません。
いっぱい泣いて、いっぱい苦しんで、いっぱい死のうとすら思いました。
そうやってもがいて苦しんで、少しでも楽になりたい、今のままでは辛すぎて生きてはいけないとあがいて苦痛を乗り越えてやっとたどり着いた考えです。
綺麗ごとや良く思われたい、そんな嘘と幻影に悩まされ、それでも、苦しいままでは嫌だと本質を探し求めて傷だらけになってやっとたどり着いたのが今の考え方です。

それでも本質にはまだほど遠いかもしれません。でも今の私はここまでです。来年の私はまた違うかもしれませんが、来年も生きているという保証は私にも、誰にもありません。事故も病気も天災もあるのですから。だからこそ伝えます。同じように悩む人に。強く、強(したた)かになりなさいと。少なくともそれで私は生きてこられたよ、少しだけ楽になったよ、と。
共感できなくてもいいのです。それが誰か一人でもこの長文を見た人の心を軽くできたらいいな、何かのきっかけになればいいな、それだけです。感謝されたいわけでもお金が欲しい訳でもないです。ただ伝えたいだけです。
だから私は違うというのなら、その違う考えをまた自分の方法と自分の場所で伝えたらいいと思います。伝えなくても、自分の考えを持つことは大事です。だって自分の人生なのだから、誰かの考えで生きるより自分の考えで生きた方が良いからです。

障害を悪いものとしてとらえるのではなく、強みとしてとらえることができたら、それは多くの同じ障害を持つ人たちを勇気づけることができるでしょう。そうしていま落ち込んでいる人や、悲しんでいる人たちが少しでも前を向けるように、今あなたは何をしますか?
そういった一人一人ができることをする、ただそれだけで世界は本来一瞬で変わるものなのです。

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