4 ジャッジについての話

多くの人はすぐに良いか悪いか、善か悪かのように0か100かで考えがちです。ですが実際には1もあれば、37とか68とかそういった中途半端な数字もありますし、白か黒だけではなく、白よりの灰色とか、ほぼ黒の灰色とかもあります。

それなのに、多くの人はすぐにそれは良いことだ、悪いことだと判断したいのです。そうして勝手に一喜一憂します。
そうしてそれは普遍であると勘違いをしています。

よくある例えで言えば、人を殺すことはよくないことでこれは普遍であると考えている人が現代社会では圧倒的に多いでしょう。ですが、普遍ではありません。

なぜなら、戦争でもそうだったかと言えばどうでしょう。
日本では敵討ちは美徳のように扱われたりして、忠臣蔵には今でも人気がありますし、日本以外でも戦争においてたくさんの人を殺した人ほど英雄として扱われます。
それは昔の事で今は違う?本当にそうでしょうか?

例えばニュースでテロ組織を軍隊が全滅させましたといったようなものは聞いたことがありませんか?
つい先日もイスラム国の指導者がアメリカ軍の急襲によって自爆したことをバイデン大統領が【作戦成功】とニュースで手柄のように伝えています。

そんなのは海外の事で日本は違うよ!という人もいるでしょう。
ではなぜ死刑制度があるのでしょう?
日本で議論に度々あがる道徳や倫理を問うならば
例えば、安楽死を実行した医者は倫理的にも宗教的にも殺人ではないと言いきれますか?

そういった疑問を提示したとき、多くの人はそれは良いことだとか悪いことだと言い出します。もしくはそんなことを言うなんてと論点をずらして私自体を批難する人も居るでしょう。私はそれこそが違うと言いたいのです。

物事にはいろんなケースがあるように、いろんな場合や考え方があってしかるべきです。そういった議論の中から様々な意見や新しい解決策なども見つかるからです。

自分の考え以外は認めないし、自分の考え以外は無くなるべきだという考え方こそ危険な思想だとおもいます。なぜなら言論の自由を奪い、思想弾圧に繋がるからです。そうしてそういった思想の強制統一と言論弾圧を実現している国があります。北朝鮮や一部の話題に対する中国です。文字通り異論があれば殺されます。それが自分の意見以外は認めないということです。

言葉ひとつにしてもそうです。勇気というのは良い言葉です。という人もいますが、勇気がでなくて自殺できなかったという場合はどうでしょう?勇気がでたから強盗に入ったといわれたら?

そういった使い方は誤用だと言い出す人もいますがそうではありません。それこそ勘違いです。

日本人は基本的にその事(事実)自体をジャッジしたりはしてこなかったのです。それはみかんは良い言葉ですか?とか、みかんは悪い事ですか?と言うようなものです。良いとか悪いではなくただ存在しているだけでそこに善悪はないのです。

これは良い言葉、これは悪い言葉、ということは【基本的には】ありません。
バカは悪い言葉、みたいなことですら、良し悪しというよりも、
品がない、下品、がさつ、お里が知れる、お育ちが出るといったような言葉で表現していました。もちろん、ガラが悪いなどの言い方もあるので基本的にはと書いています。

良い悪いというのは人の立場によっても変わります。
例えば、熱心な仏教徒にとってはキリスト教はよくない宗教だと言うでしょうし、キリスト教徒にとって仏教は邪教だと言うでしょう。
でも善悪に本来とらわれにくい日本人は初詣にお寺にも神社にも行きますし、バレンタインもクリスマスも、仏教でもキリスト教でもないハロウィンもやります。そこに仏教だとかキリスト教だとか良いとか悪いとか、善悪は感じていないと思います。

仕方がない、しょうがない、といった言葉や、さようなら、という言葉にもこの善悪は立場で変わるということがうかがえると思います。

仕方がない、仕様がない、というのは、他にやりようがない、という意味です。
つまり、譲れない想いと譲れない想いがぶつかったとき、他に(共にやる)方法がない、ということをわかっていたのです。
他にやりようがない、それならば、という意味がさようならです。
左様なら仕方がない、つまり、そういうことならしょうがない、ということ。お互いに譲れないのだから別々の道を歩み、お互いにそれぞれを通しましょう、だからさようなら、といったのです。
だから現代語で言うのなら、
そういうことならしょうがないよね、バイバイ
ということです。
そこにどっちが良いとか悪いとか、どっちが正しいとか間違えてるとかではないのです。

そうして、日本人は覚悟を持って生きていました。
それは生きぬく覚悟と死ぬ覚悟です。
もちろん全ての人がそうだというわけではありませんし、死にたくないと思うのが普通です。
でも今とは考えられないほど死が身近でした。

七五三もその年の前に死ぬ子供が多かったからできた行事というか祈願であり感謝です。子供でもたくさん死んでいる時代です。大人だって例外ではありません。例えば出産も今よりずっと多くの人が命がけで挑み亡くなってますし、病気や怪我においてはまともな治療法もなく祈祷で治すということもあるような時代です。日常においても死の危険がいっぱいあるのに戦争も起きますし、天変地異も起きます。
そういった中で生きていくには、生きぬく覚悟、つまり、いつでも死んでしまう可能性があると自覚して悔いのないように生きていたのです。

更に日本は他の国とちがって、全ての天変地異があります。地震雷火事親父なんて言いますが、それに加えて、津波、噴火、台風、大雪や大雨に日照り、洪水や土砂崩れ、いなご等の大量発生による蝗害なんてのもあります。え?イナゴ?と思う人もいるでしょう。それは例えばお寺にある虫塚などにも資料はありますし、天保の大飢饉は虫によるものだという説が有力です。
つまり、日本は天変地異がほぼ全部揃っているのです。
つまりそれだけ急に日常が壊れて死んでしまう可能性があると言うことです。それは人の死だけではなく、街ごと無くなったりする日本だからこそ、日本人は散り際に美を見いだし、桜に想いをよせるのかもしれません。

そんな日本人ですから、互いの理想や道理がぶつかったとき、左様なら仕方ない、バイバイとお別れをするか、それでも譲れないならば生き残ったほうが相手の分も自分の義を貫くと命を懸けて戦いをしました。

義とは理由、意味、公共のために尽くす気持ち、人としての道理、という意味があります。これに正しいという言葉をつけて正義としたからおかしな事になったのです。どっちも正しい、と認めること、これこそが今流行りの多様性なのではないでしょうか?昔の人はできたのに現代人にできないはずは無いのですが、何故できないのだと思いますか?

口では多様性、いろんな意見を認めるべきだ、といいながら、一方ではそれは正しくない、悪いことだ、良いことをすべきだ、悪は滅ぶべきだ、といったように自分の思う正義を振りかざすから、一般的に過激なフェミニストは嫌われてしまうのです。

多様性を認めるということは、自分とは違う意見や自分は受け入れられない考え方も認めるということです。それはその意見に賛成しろと言うことではなく、昔の日本人のように、そういった考え方もあるんだね、自分は無理だしできないけどね、ということで構わないから相手の義を認めるということです。

義とか言えば難しいと感じますか?こう考えたら良いのです。あなたは仏教徒なの?私はキリスト教を信じているけどブッダもなかなか良いことを言っているよね!と相手の考えを認めるだけです。〇〇教徒だから良いとか悪いとか、相手を認めるということは改宗するとか負けるとかそういう事ではないのです。ただ別の宗教の存在を認めるだけでいいのです。勝った負けたにしたり、優劣を付けようとしたり、善悪にしたり、ジャッジメントするから揉めるのです。

義とは考え方で生き方で真念だったり譲れないものだと考えたら良いです。ですから、受け入れられることも、拒絶反応を示すようなことも全部ひっくるめて、でも地球上に存在してるよね~。と存在を認めるだけでいいのです。それが多様性で、受け入れです。

ジャッジするとろくな事になりません。
善悪、優劣、白黒、0か100、有か無、勝ち負け、そうやって二極化で考えたら、最終的には残るのはどっちかという生と死をかけた戦いになるのです。そうしていつの時代も勝者、つまり生存者が正義で滅ぶ方は悪です。

良し悪しや善悪で考えたら、正義を振りかざし本来は無関係の人なのに平気で攻撃的になり時に自殺に追い込む程のことをする人もいます。(SNSでの炎上等のニュースでみたことがあると思います)悪い事をしたのだから死んで当然と罪悪感すら持たず、でもいつかミスをしたら自分もターゲットにされるのではと怯えてはミスを許さない世界で生きることになります。つまりどっちが生き残るのか弱肉強食の畜生道で生きているのです。

勝ち負けや優劣で考えたら、自分より下の者を見下す傲慢な人間を量産し、自分より上の者には卑屈な劣等感を抱く、つまりどっちが強いか戦い続け、勝った負けたしかない修羅道でいきるのです。

白か黒かで考えれば、グレーやピンク等は異端児だと弾圧や排除をして多様性の欠片もない息苦しい世界ができるでしょう。そうして同意しないやつが居るから息ができないともっと理想を追求し、もっと自分の思いどおりにと飢えた飢餓道で生きるのです。

人として生まれながら、人として人間道に居ないのですから苦しくて当然です。

こういった二極化になってしまうのには理由があります。この世界の本来の姿は中道(真ん中)であると知る修行場だからです。中道だよーとブッダもいっていますが、多くの人にとって頭では理解していても実生活で取り入れるのは難しい人も多いのです。それは右の端と左の端をし知ってはじめて真ん中を意識するからかもしれません。

中道とは、善悪とか白黒とかの真ん中っていうことだけではありません。真ん中にいればどっちの気持ちもわかるのです。つまりどっちも許容できるし、否定もできる。それが真ん中です。

真ん中にいる事は

0だ!
いーや!100だ!

と争う人を

それ以外の数字もあるのに見えてないんだなあ。もし33!とか67!って言って入っていったらどうなるんだろう?

と面白がって見ることができるのです。つまり中道とは両極に縛られずに柔軟に考え物事を見ることができるということです。善悪等の二極化(ジャッジメント)に囚われている人には持ちようもない視点なのです。

きのこ派VSたけのこ派の争いに、今はもう見ない杉の子派で参戦する視点とでもいいましょうか。
そういった面白おかしく楽しめる視点を持てるのです。

そうして中道にいてはじめて、多様性を認める事ができるのです。つまり人間道を歩めるのです。
何故なら相手を尊重し、対等に扱うからです。そこには敵味方というジャッジメントもありません。
意見は違って当然と思っているからです。
それはこう考えたら良いでしょう。

1〜1億の数字の中で一個選んで!と言われたときに同じ数字を言うと期待しますか?もし一緒なら凄いと偶然を喜ぶでしょうが、基本的には違って当然と思うでしょう。そうして違ったからと怒るなんて馬鹿げていると感じるでしょう。でもそれで怒ってるのがジャッジメントをする人達です。

もちろん、善悪があっても良いですし、メリットもあります。善悪があることによって抑止力が働きます。正しいことをしようとする人が増えれば良い世の中になると信じる人がいても当然です。でも世の中には当然、悪いといわれることをあえてやりたい人も出てきますから、結局悪は消えないのです。それは善悪のどっちかの世界にいるのですから、仕方の無いことです。

こんな話を聞いたことがあります。
ある有名なパンの顔を持つ子供たちのヒーロー。敵に対していつも鉄拳制裁するのがお約束なのですが、それを見て最近は【暴力で解決しようとするから毎週毎週意地悪をするんだ】と言う子供が増えているそうです。
こういった思考のベースには、本来の人が持つべきジャッジしない思考というのがあるのだと思います。こういった思考を大人になっても大事に持っていて欲しいと思います。

とはいえ、ジャッジが悪いと言っているわけでもないのです。なぜなら、ジャッジすることではじめて見えてくることもあるからです。人は白と黒の両方を知ってはじめて灰色を本当の意味で理解できます。最初から灰色を知って白も黒も知った気になるよりも、ずっと深く灰色のことも、白の事も、黒の事も理解できます。

それと全く同じで、両極を知ってはじめて本当の意味で深く真ん中(中道)を知ることができます。だから誰でも自分があまり深く知らないことほどジャッジをしたがるのです。

だからもし、あなたが何かについてジャッジして善悪などで判断したとしたら、『あ、私はこのことについてあまり深く知らないのだな』と感じてみてください。そうしてあえて反対側の立場の意見をポジティブな方向で調べてみてください。

それは例えば、ディベートの授業でやるような感じです。
たとえば、あなたはトマトが好きですか?トマトが好きな人は右側、嫌いな人は左側に移動してください、と左右に移動してもらいます。
そうして、トマトが好きな人たちにトマトが嫌いな立場で他の人たちがトマトを嫌いになるようにトマトはよくないとアピールさせます。
逆側のトマトが嫌いな人たちには他の人たちがトマトが好きになるようにアピールしなさいと課題を出すのです。
もちろん、本来の立場でもアピールしてもらいますが。

このようにすると、逆の立場で考えるということができるようになります。それと同じように、もしあなたが頭に来ることがあったり、受け入れられない考えを持つ人がいたときにこの方法を試してみてください。
そうすることで両方の端を擬似体験でき、より早く真ん中を知ることができるでしょう。つまり、相手の事をとりあえずそういう人もいるんだ、というところで許容できるでしょう。

ここで大事なことは、許容するということは、自分の意見を曲げる必要はないということを忘れないことです。つまり、私はこうだと思う、というところを譲る必要はないのです。そこで自分を通そうとすれば修羅道まっしぐらです。あなたが負けて泣く泣く相手の意見に従うか、あなたが勝って無理矢理従わせて恨みを買うか、どっちにしても得はすくないのです。

これは日常にも使えます。
例えば、
私は今日はこんなことをしてしまった、何てよくないことをしてしまったんだろう、
とか
私は自分のここが嫌い、本当に嫌になる
とか
こんなこともできないだなんて!何てダメなんだろう
なんてことは得に自分が好きではない人にはよくあることですが、これもジャッジですから、あなたがもし友人にそれを言われて慰める立場だったらと考えて反対側に立ってみたらポジティブとネガティブ両方の立場に立てます。前回の妄想力を使うのです。

そうすることで、両極を満足行くまで満喫したら、ふっと、そして急に冷静になることがあります。それが真ん中に行った瞬間です。
そうして良いとか悪いとかではなく、
まあ、起きちゃったもんは仕方がないからこれからどうしようかなあ
みたいな視点に立つのです。それが真ん中からの視点で、そのときは善悪ではない場所にいるでしょう?つまりジャッジしていないところなのです

そうしてどっちの立場も経験するから、どっちの立場にいる人の事も理解できるし、慰めることも共感することも、叱咤激励という意味で非難することもできるのです。

つまり、ジャッジ自体はよくも悪くもないんですが、ジャッジの世界でいきると苦しくなるからジャッジの世界を満喫したら早めに真ん中の世界に行くと楽だよ、という話でした。






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