2 多角的な視野を持つということ

多角的な視野を持つということ

私はよく多角的に物事をみなさいと伝えます。
そうすると、
『多角的ってなんですか?』
と聞かれます。多角的とはいろんな角度から物事をみるということです。

これはお釈迦様が説法の時によく使った例えですが、例えば象を正面からみた人は鼻が長い生き物だと言うでしょう。ですが、後ろからしかみたことがない人は鼻が長いなんてそんな生き物がいるわけがない、象は尻尾がキュートなお尻の大きな動物だと言うでしょう。横からしかみたことがない人は、二人とも何を言っているんだい?象は大きな耳があるんだよ、というでしょう。

そうして不思議なことに人間は意見が食い違うと
自分こそが本当のことを言っていて、他の人は嘘をついている
と考えがちなのです。みんなが本当のことを言っているとは考えませんし、むしろ自分こそが本当のことを言っていると自分の発言の正当性を訴えるのに必死になって、時に他の人の発言や、そもそもあいつは信用ならないとか人格否定さえする人もいます。

ですが実際はどうでしょう?象は鼻も長いですし、お尻も大きくてキュートな尻尾も大きな耳も持っています。誰も嘘なんてついていません。
そういったことが人生ではよくあります。

例えば、こんな感じです。
ある二人がやっと恋人同士になりました。周囲はおめでとうと祝福しますが、ある人物だけは、『え、付き合ったの?リア充は爆発しろ、早く別れろ』といったとします。
多くの人はなんて酷い人だ、嫉妬に狂ってみっともない、などネガティブな感想を持つでしょう。そうしてそう感じたこと事は普通のことですし、当然の感情でしょう。

ところがです。この早く別れろと言った人は、心理学を勉強していて、ロミオとジュリエット効果といわれる、反対する人がいるほど逆に別れてなるものかと末長く続く心理を知っていてあえてそう言って嫌な役を買っていたとすればどうでしょう?全然見方が変わってくると思います。

よく、真実と事実は違うといいます。真実は人の数ほどあるけど、事実はひとつしかない、なんて言い方もします。
真実、という漢字の真と実はどちらも【まこと】という意味があります。つまり本当、という意味です。別れろと言う発言にたいして酷いと感じたことも本当ですし、末長く続いてほしいからあえて悪者になって幸せを願うという気持ちも本当です。どっちも本当なのですから、どっちも真実です。

でも誰の立場にたつかで物事の感想は大きく違います。
この事を誰しも頭ではわかっているのですが、現実の生活に上手に反映している人は少ないのです。

それは使い方によって一見性格が悪いように感じてしまうこともあります。例えばこんな使い方をするときです。

いつも嫌味を言ってくる上司に対して、
もしかしたら職場以外で威張ることができないから弱い者に対して威張り散らして鬱憤を張らしているのだろう、かわいそうに。
と見下すことで溜飲を下げる人もいるでしょう。
ですがこうやって考えることで過剰なストレスから逃げることができ、結果自分の精神衛生上大変よい結果をもたらします。こういった考え方ができず真正面から受け止めてしまって鬱になってしまう人もいます。別に口にだして非難するわけではないのですから、こういった逃げるための考え方も時に大事になるのです。

とはいえ、これが、もしかしたら私を成長させるためにあえて嫌われ役をやっているのかもしれない、もしかしたら自分にはわからない意図があるのかもしれない、とプラスの方向で考えることができるのならそれに越したことはありません。

多角的に物事をみるということはとても大事なことです。
人は誰しも基本的には主観的な生き物です。それは当然です。だって自分として生きているのですから。お化けではないので誰かに憑依して生きているわけではないのです。だからこそ、いろんな角度から物事をみようとすることで始めて見えてくることがあるのです。

それは例えばサイコロのように、『私1だと思う』と言っても、他の面をみたら6まで違う数字を言う人が出てきても全く不思議はありません。それどころか、そのサイコロは12面体で12まで数字を言う人がいるかもしれませんし、18面体ともっと多いかもしれません。しかし、主観的でしか物事をみれなければ他の人は嘘をついていると思うだろうし、もしかしたらみんなが自分を騙そうとしていると感じるかもしれません。みんなが本当のことをいっている可能性に気がついて始めて他の数字がある可能性に気がつけて、本当の形が見えてくるのです。

そういった、かもしれない、という可能性を考えることには想像力が必要です。この想像力を私は茶化して、妄想力と呼んでいます。これについては又次回書くとして、多角的に物事をみるにはどうしたら良いのか具体例を書こうと思います。これはあくまでも、一例にすぎないため自分はこうしている、というのがあればもちろんそれで構いません。

例えば、あなたが『バカ』といわれてとても腹が立ったとします。
このとき、腹が立ったのはあなた自身です。つまり腹が立ったのは主観的な感情となります。他の人はあなたが腹が立ったことは関係ないですし、それに気がついてもいないかもしれません。とにかく腹が立ったと実感しているのはこの時点ではあなただけです。

そうして、次の段階としてあなたは腹が立ったと言うことを表現しようとするでしょう。それは言葉でかもしれませんし、行動でかもしれません。とにかくそれを表現することで周囲は始めて、『あ、この人怒っているな』と理解します。なかには理解しない人もいますが。(空気が読めない人はどこにでもいますから)

そうしてこのときの周囲の目こそが第三者の目となります。つまり、客観的な視点というものになります。そうして野次馬はたくさんいるように、第三者の視点というのもたくさんあるのです。

そうして人は周囲の目を気にした時始めて、この行動は適切だろうか?と気にします。一人だけの時や怒り心頭で周囲の目を気にする余裕もないときは感情のままに動きますが、他人の目を気にしたとき、始めてこれは正当性があるかどうかを気にするのです。そうして、それが適切でも不適切でも大抵の人は自分の正当性を周囲にアピールします。『だってバカっていったんだ』と。

つまり、周囲に現時点でどう思われているかを何となくわかっているのです。つまりどこかで誰しも客観的な視点を持っているのです。そうでなければわざわざ正当性を主張しなくてもみんな理解するからです。ヒーローが悪役を殴ったときにいちいち周囲に自分の正当性を訴えたりしないのと同じです。誤解が生じていると感じているだろうという客観的な視点があるから正当性を訴えているのです。

ただ、このことに気がついていない人はたくさんいます。だから自分は客観的に物事をみるのが苦手だと言ってしまう人もいます。本当はそんなことはありません。みんな自分は悪くないと訴えるのは上手でしょう?
本当に正直に生きればそんな必要はないのですが、それもなかなか難しいことだということも理解しています。
それが悪いことだと言っているのではないです。濡れ衣を着せられた時に、正当性を訴えることは自己弁護という意味でも、自分を大事にするという意味でも大事な行為ですからそれ事態はよいことです。今大事なことは、客観的な視点を持っているのに気がついていないということです。

そうして、ある程度冷静になったり、周囲に話したりしたときに多くの人が始めて持つ視点が、相手の気持ちです。『もしかしたらジョークのつもりだったのかもしれないよ』『照れ隠しだったのかもしれないね』など他人に指摘されて始めて気がつくこともあります。相手の気持ちに関して考慮する人は大変少ないです。それは自分がどう感じたかを大事にしているからです。
それ自体はとてもよいことですし、大事にすべき事です。ですがそこだけで生きるということはサイコロの一面だけしかみていないのと同じです。
自分はこう思うと強く主張すれば、他の数字をみている人達の声を封殺し、他の可能性を潰すことにもなり、時にあの人は他の数字があることにも気がついてないかわいそうな人と言われてしまったり、自分の考えを押し付ける人といった加害者のように扱われる可能性すらあります。
こういった人には特徴があり、事実がどうだったなんて関係ない、私がどう感じたかの方が大事なのだとか、私が感じたことこそが真実で事実であり他の理由など全く関係ないといいきったりと、多くの国の情状酌量という裁判制度すら揺るがす持論を展開します。こういったことは、子供の理屈ですし、自分がそうされたら怒り狂って抗議するのですから中身が子供としか言いようがありません。

ところが私は言葉が強いですから、勘違いをされてしまいます。大事なことはひとつではありません。自分の感情も同じように大事ですが、客観的にみることも同じくらい大事だと伝えているのに、自分の感情を殺してでも客観的にみろといっていると勘違いされがちですが、そうではありません。
自分の感情だけでも視野が狭くなってしまいますし、周囲の目ばかりでは自分の感情に疎くなってしまいますからそれも同じようによくないのです。大事なことはバランスですが、このことを理解できずに非難することに必死な人もいます。それはどちらかに片寄っている自分の正当性を主張するためです。そんなことをしても本当の事は変わらないのにです。

大事なことはなぜ相手がそうしたのだろうと考える、または知ろうとするということです。これはとても大事なことですが、感情的な人はこのことをないがしろにします。これはどこの国の司法でも、きちんとした裁判制度がある国なら情状酌量というものがありますが、それと同じです。

極端な例を言えば、この人は人を殺しました、といえば、多くの人はなんてひどい人だというでしょう。ところがこの人は自分の家族や愛する大事な人を全員被害者に殺され、復讐のためにやり返したと聞いたらどうでしょう。それなら仕方ない、という人すら出てきます。もちろん、理由を聞いたらもっと憎しみが増すような時もありますが、そういったことも含めて多くの国では量刑に反映しています。

ところが日常生活において、この情状酌量はほとんどの人が無視していて自分の主観でのみジャッジし、時に周囲に自分の都合のよいこと【のみ】を話して周囲を巻き込みいじめに発展させる人もいます。そうして、めんどくさいからとか、事実の確認をせず噂だけで他人を判断する人達は一緒になってその人を無視したりいじめます。もう、そこまでいくと、どちらが加害者で、どちらが被害者かわからないですよね。でもそういう卑怯な人達もいるのです。なぜなら、【私は】というところでは戦えないとわかっているから周囲を巻き込み、いざとなったら【みんながやった】と責任逃れをするからです。

そういった人も出るくらい、特にネガティブな感情を持つ相手に対して人は、なぜそうしたのか、なぜそうするのか、など相手側の事情や理由を考慮する度量のある人は少ないのです。

本来の日本人にはあったものが失われてしまったのです。
本来の日本人はお互い様、お陰さま、助け合いの精神で生きてきました。
当然ですが、もう看過できない! !ということもあります。
そういったときは村八分ということになります。
ところが村八分の残りの2分は一緒に参加するのです。
残りの2分とは、火事と葬儀です。

ところが現代社会において、災害時でも無視を決め込み、葬儀にも参加しない、つまり10割無視という状態もあります。これは恨みの文化です。これは日本の文化ではなく、お隣の国の文化です。基本的に日本では死んだらみんな仏様、仏様の悪口は言わない、というのがあります。とはいえ、この恨み子々孫々まで祟ってやるとか、7代祟るなどの言葉もありますが、基本的には死んだらみんな仏様で敵でも味方でも死んだらそれで終わりという文化があります。
例えばそれは、靖国神社には敵も味方も埋葬されていますし、供養塔などの形でいろんなお寺でもみられると思います。

日本は日本人としての矜持を多くの人がなくしてしまったため、より人間関係でもめてしまうことになってしまいました。
おそらく、多くの外国の方のほうが相手に対して寛容であると思います。
なぜなら、多くの国では心から謝罪したら許すべきだという考えがキリスト教的な文化で根付いているからです。

だからこそ、今の若い人は歪んだ日本人の魂のあり方に疑問を感じ本来の日本人の魂の形に戻ろうとしています。
もちろんそうでない人もいますがそれは突然そうなるものでもありませんから。

スピリチュアル的な周期は70年~100年と宗教や宗派、伝える団体などによって差はありますが、大体そのくらいといわれています。つまり、戦後で歪んだ日本の形が、もとの本来の日本人の形に戻ろうとしています。
当然ですが 70年から100年かけて歪んだものを1日でもとに戻せる訳ではありませんし、そんなことをすればついていけない多くの人が行き場をなくしますからまた70年~100年かけてゆっくりと最適な形に変わっていきます。

それは完全にもとの形ではなく進化した他の形かもしれませんし、人の心がすさめばもっと悪い方向に変わっていくのかもしれません。
いずれにせよ、今大きな転換期にあることは確かです。
そうした時期に自分の事だけを考えるのではなく、嫌なことをして来る人にも慈悲の心を持つことが大事です。
なんていったら、そんなのは無理と思うかもしれません。だからこう考えてください。

どうやって考えたら自分の心が軽くなるか、どういった状況なら相手がしたみたいな行動を自分ならするのか、それは絶対にしないとかではなく、もししなければいけないとしたらと考えれば、大抵の場合それはポジティブな理由を導き出すでしょう。

それでもネガティブな理由しか浮かばないとしたら、もし自分ならなぜそこまで嫌うのかを考えてみてください。それはそのまま自分へのダメ出しになりますが、それは成長の余地があるということですし、そこがなくなったら相手から意地悪されないという根本的な解決策にもなります。

こういったもし相手の立場なら、もし自分が野次馬の立場なら、という視点が視点を変えるということです。そこに、もし後輩なら、先輩なら、家族なら、親友なら、など身近な人ならといろいろな人の視点に立てば立つほど、多くの視点を持つことになります。これが多角的な視点というものです。

そうして、この多角的な視点にたって始めて本当の形が見えてきます。つまり、多くの視点からみればみるほど、事実に限りなく近づいていくのです。多くの真実を集めると事実が見えてくるのです。
ところが、これまた不思議なことに、人には口がひとつしかついていません。
あなたがどんなに客観的に、多角的に物事を見つめ、一番事実に近い真実を語ったとしても、一度言葉にしたらそれはあなたからの視点、つまり真実のひとつでしかなくなってしまうのです。あなたがどんなに多角的な視点で考察して一番事実に近いことをいったとしてもです。

そうして時に、一番事実に近いことをいっても、周囲の人間は一番自分達が感情的に納得できる理由を採用します。
それで悔しい想いを何度もしてきましたが、それは相手にとっても同じことなのだとわかったとき、そりゃそうだよねと納得したものです。

多角的に物事をみることは、誰かのためではありません。
自分のためです。
特に怒りや悲しみなどの強い感情に対して効果的です。
自分を納得させる手法のひとつです
そうして多くの真実を考えることは、事実に近づく近道のひとつです。
そうして多くの場合、本当の事実が見えたとき人は納得するか、納得はしなくても理解は出きる、といったように、渋々でも飲み込むことができます。
それでもダメなときだって、人生ですから当然ありますが、それならそれで覚悟をもって、胸を張って、誰に引け目を感じることなく、私はあなたが嫌いです、と言えるのです。

さて、こうやって長々とお伝えしてきましたが、一番手っ取り早い方法というのがあります。それは、直接本人に聞くという方法です。
これにはもちろん、相手が本当のことを言わないかもしれないという事も考慮しなくてはいけませんが、大抵の場合は本当のことをいってくれるでしょう。
ですから、もし直接聞くことが出きる環境にいるのでしたら、ずばっと、『なぜそういうことをするの?』『なぜそういうことを言ったの?』と聞いてしまうのがよいと思います。
そうしたとき、自分では思ってもみない答えが帰ってくることもあるでしょう。
大事なことは感情に任せて喧嘩腰に聞かないことです。
クールダウンして冷静になったときに、直接本音を聞いてみるとまたあなたの世界が少しだけ広がるかもしれません

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