「少年の名はジルベール」感想

「一度きりの大泉の話」の興奮も冷めやらぬまま「少年の名はジルベール」を読んだ。
これは絶対に片方を読んだらもう片方も読むべき本だ。
同じ時代同じ空間を共有しても、みんな自分の眼に映る世界がすべてなんだなと感じることはままあるけれど、これもその一例。
ただその2人がそれぞれに才能のある創作家だったというのがとても興味深いドラマとなっている。

2人は同じ時代の同じ空気感の中で創作活動に勤しんでいたけど、その熱意の向いているベクトルがあまりに違う。
そもそも2人が共同生活をするきっかけは増山法恵の提案によるもの。
増山法恵の思う少女漫画革命をなし遂げるためのお眼鏡に叶ったのが竹宮惠子と萩尾望都の2人だったということなんだろう。
増山の少女漫画革命の熱意に同調する竹宮惠子に対して、「一度きりの大泉の話」を読むに「少女漫画革命?何それ美味しいの?」くらいの熱量の差を感じる萩尾望都。
「何か言ってるわね。この人たち」と思いながら自分の創作のみに没頭していたことが感じられる。

おそらくこの頃もう萩尾望都は無自覚にも創作家としての確固たる自分を持っていて、竹宮惠子は「従来通りのものではダメなんだ」という理想や焦りだけが先走った、創作家としての自分を模索している真っ最中だったんだろう。
でも竹宮惠子も才能ある漫画家ではあったし、外からはあまりその苦しみが感じられず、基本的にそこまで他人に興味がなさそうな萩尾望都から見れば順風満帆な人気作家にしか見えていなかった様子がうかがわれる。

そりゃあ創作家としての自分を模索中の、スランプに陥った漫画家が萩尾望都なんかと暮らしたら追い詰められるしおかしくもなるだろう。
と言うかスランプに陥った原因て萩尾望都と暮らしたからじゃないのか。
編集者が警告したように。

竹宮惠子は自分の人生をかけた作品「風と木の詩」を世に出したくて出したくて、でもあまりにセンセーショナルな内容から出すことが認められない状況に歯噛みしている。
これは竹宮側には出てこないが、そんな中萩尾望都がポーの一族のシリーズの新作として男子寄宿舎ものを出してしまう。
そのこと自体もショックだったろうけど、きっと竹宮恵子が信頼する編集者Yさんこと山本さんが普段から萩尾望都の才能の方を高く買っていると感じていた、そのコンプレックスを強く刺激してしまったんだろう。
自分がこんなに世に出したいと思っている作品を認めてくれない人が、萩尾望都のこの新作にはGoサインを出す。

そのいろんなものが積もりに積もった結果があの萩尾望都への発言になり、しかしそのことに後悔して苦しんで「すべて忘れて欲しい」という発言になったんじゃないのか。
そしてそれでももう近くにいることはできなかったからこそのあの手紙。
もうちょっと相手を傷つけない方法も取れたかもしれないけど、それができない精神状態と若さだったんだろう。

この部分を竹宮惠子が書かなかった理由はわからない。
「萩尾さんには、彼女に対するジェラシーと憧れがないまぜになった気持ちを正確に伝えることは、とてもできなかった。それが若さなのだと今は思うしかない」としか書かれておらず、盗作を疑うような言葉を向けてしまったことは覚えているのか、覚えているからこそ書けなかったのかもわからない。

その後「風と木の詩」を出すための手段として描いた「ファラオの墓」で漫画を描く楽しみを知り、念願の風木を世に出すこともでき、一大センセーションを巻き起こし小学館漫画賞もとった。
その過程で過去の傷を克服できたように見えた竹宮惠子が風木の最終巻を出すという時になってYさんへのずっと抱えていた思いをぶつけてしまう。
萩尾望都だって自分の作品やキャラクターは自分の子供だと言っている。
しかも竹宮惠子にとって風木は特別な作品。
それをYさんに「本当は嫌いなんでしょう?」とどんな気持ちで問いかけたのかなと思うとちょっと泣けてしまった。
私もあの17巻は絶対あの巻で全部収録してしまわなければいけなかったと思います。
そういえば山岸凉子の「日出処の天子」の最終巻の11巻はものすごい薄かった。
あれも作者の「同時収録なんて入れないわよ」という強固な希望だったんだろうな。

大泉が解散して後、まだ2人が交流のあった頃、竹宮惠子が連載していた漫画を萩尾望都は何話か読み損ねたりしてどんな話か覚えていないと書いている。
竹宮側から見ると萩尾へのコンプレックスバリバリの頃。
もうこの温度差がすべてを物語っている。

竹宮惠子が創作家としての自分を確立するためには萩尾望都と離れなければならなかったし、若さゆえに相手を傷つけてしまった。
萩尾望都は萩尾望都でしかいられないゆえに相手を無自覚に苦しめてしまうことに気付いて、そして恐らく消えない怒りも抱いて竹宮惠子からひたすらに遠ざかることを選んだ。

これはもうどうしようもないことだ。
でも竹宮惠子のこの本を読んで萩尾望都に読むことをすすめたり2人の距離を埋めたいと思ってしまう人がいるのもとてもわかる。
同時にそれをかたくなに拒む頑固さこそが、ダメージを追いながらも描き続ける道しか選ばなかった萩尾望都の創作家としての強固な意志にも繋がるものなんだろう。

読む前はもっと大泉時代を美化したものなのかと思っていたけど、ちゃんと萩尾望都への強いコンプレックスを描いているし、それはむしろ萩尾側からはそんなに強く感じなかった竹宮惠子から萩尾望都への感情を理解できて期せずしてお互いの足りないピースを補い合うような作品になっていた。

でも両方読んでやっぱり結論としては、個性の強い創作家が同じ家で暮らすなんてとんでもないに尽きる。
たまたま2人が潰し合えないほどの個性を持っていたから良かったけど。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?