「一度きりの大泉の話」感想

Twitterで書くには長いことをこっちに書くという適当に書いたコンセプトを守った使い方になってますが、今回も長くなっちゃうリプの代わりにこちらで。
肥溜さんへのリプです。

肥溜さんのつぶやきで「あ!そうだ!気になってたんだ!読もう!」と思い出して買った萩尾望都の「一度きりの大泉の話」
いやあ、面白かった。

私の感想としては真の創作者って怖い!でした。
萩尾さんは「嫉妬という感情についてよくわからない」と言う。
創作表現の世界では競争や勝敗はなく誰でも好きなことができると思ってる人で、おそらくそういう感情の中で自由に自分の創作に没頭できる人。
そしてそんな境地、心情で誰もが創作しているものだと思っていた人。
それはきっと一握りの側にいる人の残酷さなのかもしれないけど、もちろん萩尾さんに非はない。
でもそういう人が「彼女が私にこういうことを言ったのはこういう感情からじゃないのか」という推測で書かれた「排他的独占愛」の章は私は恐ろしくて寒気がした。

そういう感情を抱くって特に若い時は仕方がないけど、やはり苦しいものだし恥ずかしくもある。
それを抱いた相手に「わかるわ。私だってそういう気持ちになる時はある」と言われるならまだしも「私にはそういう感情はわからないけれどあなたはあの時きっとこういう気持ちだったのね。排他的独占欲…じゃあ言葉がきついから排他的独占願望にしましょう…排他的独占愛と言えばいいのかな?」なんて冷静に分析された日にゃあ。

まだ「少年の名はジルベール」を読んでいないからわからないけど、竹宮さんは大泉時代をそれなりに美しい思い出にしているらしい。
正直50年も経てば若い時代の葛藤や自分の醜かった感情なども「あれがあったから今がある」的に美化もするし自分の中で消化するには十分な時間で、まあそれが普通だと思う。
しかし萩尾さんの側には封印しないと漫画家としてやっていけなかった傷となって残っていて、思い出すとまるで昨日のことのようにダメージを負ってしまう。
これはどちらが加害者か被害者かということではなくて、50年前の傷を生々しいものにし続けていられるということそのものが萩尾望都の化け物たる所以なのかなと。

萩尾さんはたまに根底にある辛辣な批評眼をのぞかせながらも、竹宮さんに対しては常に優秀な書き手であると思っているという姿勢を崩さずに、しかし徹底的に拒絶する。
全編に渡って「もう私に関わってこないでくれ」という悲鳴が響き渡っている。
この拒絶はあの当時竹宮さんに嫌われたと感じたショック、自分の言動が気づかず人を不快にさせたという恐怖ももちろん大きいだろうけど、やはり盗作を疑われたということへのとてつもない怒りがあるんだろうと感じる。

こういう創作者に対して絶対にやってはいけなかった盗作したんじゃないかという問いかけをしてしまったがゆえに、何十年にも渡る拒絶を受ける羽目になってしまったわけだけど、それだけ当時の竹宮さんの萩尾さんに対する恐怖は大きかったってことではないかと。
まあようするに木原敏江さんの言う「あなたね、個性のある創作家が二人で同じ家に住むなんて、考えられない、そんなことは絶対だめよ」がすべてを語ってるんだろう。

萩尾さん自身の視点で描かれる当時の話も面白かったけど、巻末の城さんのあの当時を見ていた人の文章もとても面白かった。
萩尾さんの視点だと竹宮さんは押しも押されもせぬ巻頭作家で自分はしがない巻末作家なんてことになってしまうけど、当時竹宮さんのファンとして大泉に遊びに行った城さんは増山さんから「ここに来るのはみんなモーサマのファンであなたは珍しいから呼んだ」なんて言われてる。

アシスタントへの指導の話も面白かった。
ど素人のようなアシスタントへの桃の点描の指導が「桃、桃と思いながら打つ」って。
名選手は名監督にあらずの典型。長嶋茂雄か。

さあ、次は「少年の名はジルベール」を読むぞ。


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