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しめじのちから

311の震災以降、我が家の食卓に椎茸となめこ、そして浅利が上がる機会がなくなった。僕の大好物のしめじは屋内栽培だからと言う理由で、なんとか家内の安全基準はクリアしているらしい。

言わずもがな、放射性物質の吸着を恐れてのことなのだが、僕個人としては正直バカバカしくもある。

ある時点ではチェルノブイリ以上に汚染された東京を離れられない現実。
そういう中で暮らしているというのに、何を敏感に反応しているのだろうと思うわけである。

体内被曝は確実にジワジワと僕らの体を破壊していくわけだが、食べたいものを我慢してストレスを溜めているほうが、直接的に健康に影を落とすと思うのだ。

宮崎駿の風の谷のナウシカでは、ナウシカの父「風の谷のジル」を始め多くの民が長い年月の間に少しずつ「腐海の毒」に犯され皮膚がゴツゴツとした石のようになっている描写がある。そんな苦痛を抱えてもそれでも人々は自然の中で暮らし、子を産み、育てている。

彼らが幸せだとは言わない。
しかし、生きるということに関しては前向きであり、今の一部の日本人よりは精神的に美しいと思うのである。

あるがままを受け止め、その世界の中で自分の命を最大限に燃やそうとする努力こそ命の輝き。

諦めや開き直っているのではない。
細かいことに腹を立て、イライラして、他人を罵倒する時間があれば、旨いものでも食べてストレスなく明るく前向きに生きた方が、人間としての徳が高いのではないだろうかと思うのである。

ギリシャ神話のメデューサを見たものは一瞬で石にされ死んでしまう。
恐らくは自分が死んだことさえも気がつかずに石になっているのだろう。
そんな突然の死を迎えるよりは、残された時間があるうちに自分が生きていた証拠を残せたほうが面白い。

夕日差し込む、夏の夕暮れ。
まな板の上のメデューサのようなシメジの株を見て、少なくともこいつは僕をすぐには石に変えないと思うのであった。

2014年8月12日記


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